そこには、闇と白々しい明かりと静寂しかなかった。 春の手前だと言うのに、躰の芯さえ凍らせてしまいそうな寒さは、将臣の記憶や心ですらも凍らせてしまっていた。 雪の汚れなき白さと、それを照らす曇りなき望月が、寒さを余計に助長させている。 「……兄上……、こんなところにいたのか……」 妖しくも不敵に微笑む知盛が、鎮まった縁側に入ってきた。 退廃的な雰囲気を醸し出す姿は、少し女の匂いがする。 「…俺はお前の兄なんかじゃねぇ」 知盛とは目を合わせねまま、将臣はただ月を眺める。 「……”平重盛”として……生きることを決めたのだろ…? まあ、いい…。そうやって……、眉間にシワを寄せて…月を…見ながら考えこんでいる……お前は……益々、兄上に似ている……」 知盛は可笑しそうに喉を鳴らして笑うと、冷たくも達観した眼差しを浮かべた。 それは月の光よりも冴え冴えとしていて、将臣の心をナイフのように切り裂く力を持っている。 「………兄上は……、それとも……月にだけは……素直になれるのか……?」 背筋が凍りついてしまうような笑顔だった。皮肉過ぎるその笑みに、将臣は振り払うように目を閉じる。 軽く深呼吸をした後に出た声は、自分でも信じられないぐらいに冷徹でいて落ち着いたものだった。 「……それで、何の用なんだ?」 「………母上がお呼びだ……」 「尼御前が?」 「……ああ……。…お前が…余りに……月を恋しく思うから……胸を……痛められて……いたのでは…ないか……」 知盛特有のシニカルな笑みを、将臣は振り払うように睨みつけた。その切れるような眼差しですらも、知盛は愉しんでいるように見える。 将臣には理解出来ない狂気さを持っているのか、それとも本当に愉しんでいるかは解らない。ただやぶれかぶれでないことは確かだ。 「どちらにいらっしゃる」 「……母上はお堂の中にいらっしゃる…」 「解った」 将臣は短く答えると、言われたようにお堂に向かう。知盛の横を擦り抜けようとして、その腕を強く掴まれた。 「知盛…!」 「…愉しませて…くれるんだろう…な…。お前の……望月は……」 期待に溢れる闘いに飢えた野獣のような瞳の奥には、狂った愛を見て取れるような気がした。 将臣とはまた違うやり方で、この男も、望月の少女を愛している。 望月のような少女と、闘うことで苦悩を強いられている将臣に対して、目の前の男はそれを愉しみ、愛として 昇華させているように思えた。 自分とは全く正反対の愛し方だ。 羨ましいと思う半面、理解も出来ない。 「…そんな…顔を……するな……。…まるで、玩具を取り上げられた子供みたいだ……」 「うるせぇ…!」 将臣の困った表情を見るにつけては、愉しんでいる知盛の表情が、大いにしゃくに触る。 「……あれは……、良い女だな……有川……」 見たことのないようなうっとりとした眼差しと、恍惚とした知盛の声に、将臣は、酷くいらつく。胸に細い針を刺されたみたいに痛かった。 「あんなに……燃えるような激しい瞳は……見たことが……ない……。あんな瞳で見てくれる女も……」 捻くれてはいても、知盛の表情は、恋をする男そのものだった。瞳は確実に生き生きとプラスの方向で輝いている。このような知盛を、将臣は見たことがない。 月を愛でる知盛は、恋を初めて識った無防備さを秘めている。 純粋で真っ直ぐだと、将臣は心底思った。 自分は豪快で大胆に見えるが、こういった場合は、頭の中でぐじゃぐじゃと考えてしまうタイプだ。 無邪気で真っ直ぐとした気持ちではいられないぐらいに。 だからこそ知盛が羨ましかった。 「…そんな…難しい顔を……するな………。有川よ……」 ただ黙って聞いていることしか出来ない。今の自分には…。 「…有川……母上がお待ちだ……」 「ああ」 将臣は、知盛に一瞥を投げると、尼御前がいる古びたお堂に向かう。 賢夫人である尼御前を前に、今の心の揺れを隠し通す自信はなかった。 幽玄な空気を身に纏いながら、将臣は尼御前の元に向かう。 「尼御前、将臣です」 「将臣殿、お入りになって下さい」 何時もよりも凛とした時子の声に、将臣の緊張は増す。 「失礼します」 お堂の中は、闇の底のように静まりかえっていた。 「お座りになって下さい、将臣殿。今宵は、弐位の尼としてではなく、あなたの母親として、一言、お話をさせてください」 「尼御前…」 何を言われるのかを、想像することすら出来ない。将臣は心が強張ってしまうような気がした。 「将臣殿…。あなたが私たちに示してくれた厚意を、本当に感謝をしています。一門を代表して御礼を申し上げます」 まるで他人行儀な時子の態度に、将臣は落ち着かない。どこか苛々すらしてしまう。 「尼御前…。俺がやりたくてやったことです。そんな他人のように礼は言わないでくれ。俺のほうがどれほどお世話になったか、計りしせません」 「いいえ…。あなたは充分にお勤めを果たされました。だからこそ、私はあなたをお心のままにしてあげたいのです」 時子は静かだった。ただ淡々と話をするだけだ。そこには母や祖母である強さが秘められている。 「尼御前…!」 まるで自分を否定されたような気がして、将臣は思わず声を荒げた。 「将臣殿…。ひとは、本当に大切に想い、二世を誓い合う相手を失ったとき…、抜け殻になるのです…」 「尼御前…。それは…」 将臣は眉を潜めると、苦しげに俯く。 「ほんに…、そうしていると生前の重盛殿によく似ていらっしゃる…」 まるで遠い遠い昔を懐かしむかのように、時子は呟き、目を細めた。自ら腹を痛めた子供ではなかったが、やはり時子にとっても重盛は大切な存在だったのだろう。 「…だからこそ、これ以上あなたを”重盛”という名に縛り付けておくことは出来ません…! ひとは自分の半身を失ったときに、心は死んでしまう。そんなことをさせるわけにはまいりません…! 心は死んでしまえば、生きていても何も意味はありません…! だからこそ、私は、いえ、平家一門は、あなたに抜け殻になって欲しくないのです…!!」 将臣は動けなかった。 時子の言葉が胸を深く貫き、総ての思考を停止させる。 「…尼御前…」 「自由におなりなさい。私が言うことはそれだけです。将臣殿…」 「はい。失礼致します」 お堂を辞しながら、将臣は自分の凍り付いた心の意味を考える。 もう心は麻痺し死んでいる。 だからこそ、生きていくには、何かを糧にしなければ生きてはいけない。 将臣にとってそれは、平家だった。 望美のことを忘れさせるにはそれしかなかったのだ。 確かに心がもう、無邪気な幸福に浸ることは出来ないでいたから。 愛は昇華させるには、闘いで決着をつけるしかない。 冷気を浴びながら、自分の寝処に向かう。夜空に浮かんだ望月は、何も応えてはくれなかった。 |