あいのうた


 小さな頃は、「まーくん」といつも呼んでいた。
 それがいつの間にか、ちゃんと名前で呼ぶようになっていた。「将臣くん」と。
 くすぐったいような、どこかさびしいような、そんな響きがどこかにある。それは、無邪気な時代が終わってしまったことを、意味しているのかもしれない。
 純粋に、男も女も関係がなかったあの頃が、今は妙にノスタルジィを感じるのは、私たちが成長するにつれて、男女という間柄を意識せざるをえないからだ。
 よくモテる将臣くんを見るだけで、苛々するもやもやは何なのだろうか。
 特に将臣くんに対しては、その想いが深まるばかりだ。

「おい、何ぼーっとしてんだよ」
 教科書で軽く頭を叩かれて、望美は将臣を睨み付けた。
「ちょっと、何するのよ! 不意打ちは禁止よっ!」
「事前に言ったら、不意打ちの意味はねぇじゃねぇかよ」
「まあ、そうだけれどさ…」
 いつも主導権を握られるのが悔しくて、望美は唇を尖らせてすねてみせる。将臣は目を細めて笑い、望美の額を軽く突く。
「もうっ! またそんなことをするっ!」
「だってお前をからかうのは俺の趣味だからな。やめられねぇよ」
「変な趣味は止めてよー」
 将臣が長い脚を持て余しぎみにして、前の席にどっかりと腰を下ろして、笑っている。
 こうすると、小さな頃の面影はいくつも数えられるけれども、時折、こちらでも驚くような艶めいた顔を見せてくる。
 例えば、不意に見せる瞳。今みたいに何気なく見つめられるときに、望美はドキリとする。
 じっとその眼差しを見ていたいと、深い視線を走らせれば、将臣の眼差しと絡み合った。
 もっと見つめていたい。そこまで想い、視線を廻らせたところで、見知らぬ誰かの視線を感じた。
「有川くん!」
 顔を上げると、思い詰めるかのように緊張した女の子が、将臣を見ている。
「何だよ?」
 こう言うことには無頓着な将臣は、何のことか気付かずに、女の子を、睨むとまではいかないが咎めるような視線を送っている。
「有川くんにだけにお話があるんだけれど…」
 ちらりと望美を見た女の子の視線が、「あなたは関係がない」と言っているみたいだった。
「ここはだめなの。出来たらふたりで…」
「OK、教室出るか」
 将臣は溜め息をつきぎみに立ち上がると、一瞬、望美を見つめた。そこには切ないほどの視線が隠されている。
 切なく、仕方がない。
 そんな想いが溢れている。
「有川くん!」
 急かすように言う女の子に、将臣を見ている。
 仕方がないと将臣はだらだらとついていってしまった。
 残された望美はどうしようもないぐらいの寂しさを感じずにはいられなかった。
 将臣が行ってしまってからというもの、望美はどこか落ち着かなくなってしまう。挙動不審だ。
 チャイムが鳴っても、将臣は帰ってこず、望美はどぎまぎと待ってしまう。
 もうすぐ古典が始まるというのに、将臣は帰ってこない。
 チャイムが鳴り終わる頃になって、ようやく面倒臭そうに、将臣が部屋に入ってきた。
 望美はホッとしたような、胸がもやもやしたような複雑な気分になる。
 望美の横を通り過ぎたところで、将臣のポケットから封筒が落ちた。
「将臣くん、落ちたよ」
 拾ってあげようとしたところで、将臣が睨みつけてくる。
「いいから俺が拾う」
 冷たくどこか苛々した口調に、望美は思わず手を引っ込めてしまった。
 こんなに苛々している将臣を見るのは初めてで、望美は目を見開いた。その驚き様が解ったのか、将臣は軽く眉を上げた。
「すまねえ」
 素っ気ない態度に、望美は首を横に振る仕種しか出来なかった。
 席について授業が始まってからも、望美の胸のもやもやは一向に消えない。
 ラブレターだ。
 きっとずっと思っていたひとからの…。そう思うと、胸が針を刺されたみたいにチクチクと痛んだ。

 授業が終わり、何時もなら声をかけてくる将臣がかけてきてくれない。
 それどころか、望美を避けるように先に教室を出ていってしまった。
 それが望美には切ない。
 こちらから声をかけるのも躊躇われて、望美はひとり教室を出た。
 そのまま可愛く走る江ノ電のコンパートメントに乗る気にはなれなくて、望美は踏切と信号を渡り、海に出た。
 雄大な太平洋へと繋がる海は、優しいグレーをしている。望美のちっぽけな存在を、大きく包みこんでくれるようだ。
 制服が汚れることなんていとわずに膝を抱えて座りこむ。
 潮風が優しく包んでくれた。
 海の前では、素直になれる。
 望美は涙が自然と零れるのを感じた。
「先輩!」
 優しい声と雰囲気は昔から変わらない、望美の大切な弟分「ゆーちゃん」。
 振り仰ぐと、既に幼い子供の面影などはなく、確実に大人になっている譲がいた。
 もう「ゆーちゃん」なんて呼べやしない。
 よそよそしい敬語まで使うようになってしまった。
 もう、小さい頃の純粋な関係には、戻れないかもしれない。
「どうかしましたか?」
 ぼんやりと譲を見ているのに気付かれて、望美は苦笑いをした。
「何にもないよ。譲くんは、クラブ?」
「はい。海岸を走ることで足腰を鍛えるんです。古典的ですよね」
「じゃあ、ここで油を売っていたらダメだよ。ほら、頑張って行ってらっしゃい!」
 望美は本当の姉のように言うと、笑顔で譲を送り出す。
「はい、じゃあ先輩失礼します」
「うん、じゃあね!」
 望美が手を振ると、譲は軽く会釈をし、仲間たちのところに行ってしまった。
 また笑顔が自分から消える。
 望美が背筋を伸ばすと、また懐かしくも切ない影を感じた。
「何をやってんだよ?」
 大好きな声が背後に響く。
 大好きなのに大嫌い。
 そんな感情がぐるぐる望美の中に巡っていく。
「将臣くん、帰ったんじゃなかったの?」
「ちょっと野暮用があったからな、それをすませてきた」
「ふうん」
 何気なく装いながらも、内心はナイフでギタギタに引き裂かれるぐらいに、胸が痛い。
 見えない血がきっと流れている。どす黒い色をした、感情的な血が。
 将臣は断ることもなく、ごく自然に望美の横に腰をかけると、じっと海を見た。
「海はいいな。ホッとするぜ。色んなもんを優しく包み込んでくれる」
「そうだね。想像も出来ないぐらいに大きいもんね。私達の日常がちっぽけなものに感じるよ」
 望美はすっくりと立ち上がると、海に向かってしっかりと立つ。
 深呼吸をすると、何故だか大きな声で歌いたくなった。
「♪うーみーは」
 お馴染みの童謡を望美が大きな声を出して歌うと、将臣は「何だそれは」と苦笑する。
 だが望美の歌いっぷりが気持ち良く感じたのか、いつしか横に立って歌っていた。
 ふたりして歌い終わると、顔を見合わせて大笑いをする。
 ワクワクするぐらいに、楽しい気分だった。
「スッキリしたな!」
「うん! スッキリした!」
 ふたりして満足げに声を上げて笑うと、幸福をはんぶんこした気分になった。
 不意に将臣はきまじめな顔になる。
「断った」
「…うん」
 それだけでふたりには何のことかが解る。
 どうか。
 この関係を今は壊したくない。
 ふたりがいつまでも、変わらずにいられますように
 自然と手が繋がれる。
 ふたりにとっては、これが一番今はナチュラルな関係だから。
 今はこうして結び合い、結び付く恋心を表現する練習を始めよう。
「待たせた償いに何か奢ってくれる?」
背伸びをしながらお伺いを立てると、将臣は眩しそうに笑う。
「しょうがねぇな。小町通の甘味でも行くか?」
「賛成!」
 ふたりして手を繋いで駅に向かう。
 幼なじみから恋をする相手へ。
 少しずつ今は距離を縮めていければいい。



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