*KISS*


 キス。この言葉の響きだけで、なんてドキドキしてしまうのだろうか。

 かなではいつも息が出来ないぐらいにドキドキしてしまい、どうして良いのかが分からなくなる。

 まだキスをしたことがないからだろうか。

 それとも。

 キスをしたいからだろうか。

 甘いキスは女の子の憧れ。

 いつかは大好きなひととキスをしてみたいと思っている。

 

 かなでの大好きなひとは、夏の陽射しのように爽やかな笑顔が似合うひとだ。

 その笑顔が太陽のように輝くのを見るのが、今やかなでのときめきの素になっている。

 夏の大会が終わって、大地から告白され、晴れて恋人同士になった。

 今は、ようやく手を繋ぐことが出来るようになったばかりだ。

 大地のことが大好きだから、かなでは手を繋ぐだけでも、ドキドキを止めることが出来ない。

 こんなにも甘いときめきを味合わせてくれたのは、勿論、大地が初めてなのだ。

 大地以上に、かなでをマックスまでときめかせてくれるひとは、他にはいないのではないかと思う。

 

 今日も大地と待ち合わせをして帰る。

 かなでがクラブの間、大地は図書室で勉強をして待っていてくれるのだ。受験対策の講習にも参加しているようだが、大地からはかなり余裕が感じられた。

 そこがまた頼もしいと思ってしまう。

 だからこそ大好きなのだ。

 待ち合わせ場所の正門前に行くと、大地が待ってくれていた。

「ひなちゃん」

 大地に名前を呼ばれるだけで、ついニヤけた顔になってしまう。

 それは恋する少女の特長なのかもしれない。

「お待たせしました」

「じゃあ行こうか」

「はい」

 ふたりはしっかりと手を繋ぐと、にっこりと微笑みながら、校門を後にした。

 星奏学院は名門私立ではあるが、自由な雰囲気も謳歌出来ることでも知られている。

 恋愛に関しては、爽やかなものであれば、誤法度というわけではないのだ。

「帰り道がもっと遠かったら良かったけれど、生憎、俺も君も、徒歩組だからね」

「そうですね。だけど近いから、公園で寄り道が出来ますよ」

「確かにそうだ」

 大地はくすりと笑うと、かなでを慈しむようなまなざしを向けて来た。

「ひなちゃんとこうして歩いているだけで、気分転換になるよ。新しい目標に向かって歩いていける」

 大地の新しい目標。

 外科医になること。

 少し寂しい気にもなるが、大地とは必ず繋がっている。

 それが解っているから、かなでは気にならなかった。

 お互いの目標に向かって歩いてゆく。

 だが、それで違う道を歩くかといえば、そうではないのだから。

 大地はふと空を見上げる。

 コンクールの決勝の頃は、この時間帯はまだ明るい空だったのに、今は茜色から紫色に変わりつつある。

 急速に昼間の時間が短くなってきているのだ。

「空が秋色になってきましたね」

「そうだね…」

 大地はかなでの手をしっかりと結びながら、空を見上げる。

 不意にふたりの頬を幾分か涼しい風が撫でてくる。

 まだまだ残暑だと言われているが、もう空も風も秋色の絵の具で染め上げられているのだ。

「…昼間なんか凄く暑いのに、風は心地好くなっているんだね。確実に秋が近付いているね」

「はい」

 秋。

 音楽でもとてもロマンティックなシーズンであることには、間違いはない。

 かなではふと甘い気持ちに浸りながら、大地を見上げた。

「ね、ひなちゃん、港の見える丘公園で、夕焼けを見ようか。ベイブリッジと東京方面を見ると、とてもロマンティックだと思うよ」

「はい」

 ロマンティック。

 大地から聴くと、息が出来ないぐらいに素敵な言葉なのではないかと思ってしまう。

 かなではま白い頬をほんのりと紅く初めると、大地を見つめた。

 ふたりで、港の見える丘公園の、展望スペースに向かう。

 平日だからか、猫のカップルぐらいしか見掛けない。

 ふたりは柵の前まで行くと、闇色に映え始めた夜景を見つめた。

 東京方面は大都会ならではのスタイリッシュで何処かクールな夜景が広がり、鶴見の工場地帯方面では近未来のスティールな夜景が広がる。そして、横浜方面はと言えば、明治の開国浪漫が溢れるノスタルジックな夜景が広がっている。

 様々な夜景が楽しむことが出来る、ミラクルな場所だ。

「何だかヴァイオリンでこの夜景を表現したくなりますよ」

 ヴァイオリンの音で表現する夜景のパノラマは、一体どのようなものになるのだろうか。

 かなでは自分で想像して、楽しくなる。

「ひなちゃんらしいね」

「そうですか? 何だか想像するだけで楽しいじゃないですか」

「そうだね。俺も聴いてみたいよ」

「頑張って表現してみますね。その時は、一番に大地先輩に聴いてもらいますから!」

 大事な音楽は大事なひとに。

 今までは掛け替えのない家族に聴いて貰っていたけれども、今は、大地がいる。

 この横浜の街で、かなでが一番大切に思っているひとだ。

 そのひとに、横浜の夜景をテーマにしたヴァイオリンを聴かせられることが、かなでにとっては何よりもの幸せだ。

 こんなに素敵なことはないだろう。

 演奏が出来たことのことを考えるだけで、かなではわくわくした。

 つい笑顔で自分の世界に浸っていると、大地がじっとこちらを見つめているのに気が付いた。

 自分だけが置いてきぼりになったと思っているのだろうか。

 置いてきぼりにしたわけではないのだが、つい、夢想に浸ってしまった。

 かなでが恐る恐る大地を見つめると、甘さと艶さを滲ませた精悍なまなざしが、かなでを捕らえた。

 艶のある男らしいまなざしが眩し過ぎて、かなでは息苦しくなる。

 大地のまなざしこそが、ロマンティックの塊なのかもしれない。

 大地のまなざししか、最早、かなでは考えられなくなった。

 先ほどまでロマンティックだと思っていた夜景も、今は本当にどうでも良い。

 かなでは鼓動を高まらせながら大地を見つめる。

 告白をされた時も空を飛んでしまいたくなるぐらいに嬉しくてふわふわとした気持ちだったし、初めて手を繋いだ時も、海の上を走れてしまうほどに嬉しかった。

 だが。

 今はもっと違った意味でドキドキしている。

 より男としての大地の存在を意識している。

 そして同時に、かなでは自分が女であることを強く意識させられているような気分になった。

 女だからこそ、こうして磁石のように男の大地に引きつけられるのだろう。

 かなでは意識過剰ではないのかと自分自身で思ってしまうぐらいに、大地を官能的で艶のある存在として意識していた。

「…ひなちゃん…」

 大地はかなでの名前を呼んだ後で、珍しく照れ臭いように微笑んだ。

「今のひなちゃんは、とても可愛くて…、…綺麗だ…」

 大地の声がいつもと違って甘い緊張を帯びている。

 引き寄せられて、かなでは心臓が爆発してしまうのではないかと思った。

 だが、決して嫌じゃない。

 それどころかもっと近付きたいとすら思ってしまう。

「…大地先輩…」

 言葉には出来なくて、ただ潤んだ瞳を向けて自分の想いを伝える。

 胸が熱くて、どうしようもない。

 大地の綺麗な指先が頬に触れて、顔が近付いてくる。

 緊張しているのに、ごく自然に目を閉じられた。

 唇が重なる。

 重なった瞬間、かなでは世界が変わってゆくのを感じた。

 初めてのキス。

 それはひとりの女の子の世界を変えてしまうだけの力を持つもの。

 かなでは強くそれを感じずにはいられない。

 唇が離れた瞬間、かなでは新しい自分が生まれたと強く感じた。



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