いつの間にか目で追っていた。 出会った頃は、普通の子よりも少し可愛い女の子といったイメージしかなかった。 ヴァイオリンを勉強するために横浜に出て来た、純粋な田舎育ちの女の子。 都会の子とは違って、純粋な素直さが印象的だった。 本当にただの可愛い後輩だった。 ヴァイオリンが少し上手な女の子。 卒業したら、あの子がいたね、ぐらいの印象にしかならないとも思っていた。 俺のそばにいた女の子は、皆、そんな雰囲気の女の子ばかりだったから。 だから今は可愛いと思っているが、卒業してしまったら殆ど思い出すことなんてないとも思っていた。 それが甘かったことに、今さらながら気付いた。 今や視線の先に彼女がいないと、つい探してしまう。 重症だ。 どうしようもない。 今までは女の子にこんなにも入れ込んだことはなかったし、好きになったとしても何処か冷めている自分がいた。 なのに今度は違う。 完全にコントロール出来ない自分がいる。 今までなら、適当に良いと思った彼女を作って、最終的には親の望む相手と結婚すれば良い。 何もかも忘れて夢中になれる相手なんて、どうせ見つからない。 ならば適当に妥協すれば良い。 今思えば、なんて寂しい考え方をしていたのだろうかと思う。 自分はなんて、冷たくも寂しい考え方をしていたのだろうかと。 今は夢中になれる相手がいる。 その相手を見つけられた自分が、今は幸せだ。 幸せな気分で、深呼吸をした後、俺はカバンを手に学院へと出掛ける。 今日も瞳にあの娘を映すのを楽しみにしながら。 大地は軽やかな気分で、学院へと向かう。 途中で通りかかる菩提樹寮の扉を、横目でちらちらと見る。 かなでが慌てて駆け出してきたら、一緒に登校しようと誘うことが出来るのに。 いつものように頭の天辺の髪を愛らしくほわほわと立てながら、慌てて出て来るのだろうか。 想像するだけで、ほんのりと幸せな気分になる。 思わずくすりと笑いたくなる程だ。 大地が名残惜しい気分で菩提樹寮を過ぎたところで、かなでが寮から出て来た。 本当に可愛らしくて、つい見つめてしまう。 朝の太陽を浴びてキラキラ輝く姿が、大地を幸福にする。 自分らしくないと思いながらも、かなでを見つめずにはいられない。 「あ、大地先輩!」 愛らしく笑顔で駆け寄ってくれるかなでが眩しい。 存在だけで幸せにしてくれる相手は、かなで以外にはいないのではないかと思った。 「一緒に学院まで行こうか」 「はい!」 元気に返事をしてくれるかなでを愛しくも可愛くも思いながら、肩を並べて歩く。 「まだまだ暑いね」 「はい。だけど秋は近いんだなあって思いますよ」 「どうして?」 「空の色を見れば」 かなでは空を指差すと、眩しそうに目を細める。 「田舎では空をよく見ていたので、季節の変化はすぐに分かります」 かなでは田舎のことを何処か懐かしむように呟いている。 田舎に帰りたいのだろうか。 大地は少しばかり不安になる。 かなでにはずっと横浜にいて欲しい。 「田舎が懐かしいかな?」 大地はさり気なく訊いてみる。 「横浜の蒼空の色は、田舎と違って、少しくすんで都会独特の色をしているから、蒼空を見る度に、田舎の蒼空を思い出します」 「綺麗なんだろうね。生憎、律とはそんな話をしたことはないけれどね」 「それは綺麗ですよ。律くんは寡黙だし、田舎よりも横浜でどれだけヴァイオリンを高められるかをずっと考えていたから、蒼空を思い出す暇はなかったのかもしれないですね」 「確かにね」 それには大地も同意する。 律はずっとがむしゃらにヴァイオリンをやってきたのだから。 「田舎を恋しいって思うよりも、ヴァイオリンを高めたいという気持ちのほうが勝っていたんだろうね。律は」 「確かにそうだと思います。私も今、ヴァイオリンに夢中で、横浜にも夢中です」 かなでは横浜という時に、とても幸せそうな表情をしてくれた。 大地にとってはそれが何よりも嬉しい。 横浜はかけがえのない故郷なのだから。 「ひなちゃん、横浜は好きかな?」 「大好きですよ!」 考えることなく、かなでは即答をしてくれた。 これには驚くのと同時に、とても幸せな気分になれた。 「私、横浜の空は好きですよ。横浜らしいお洒落な雰囲気がしますから。だけど田舎の空が時々、懐かしいと思います。あれほど綺麗なスカイブルーはないですから」 かなではとても懐かしそうに呟いている。 大地は一瞬切なくなった。 かなでには田舎に帰って欲しくはなかったから。 「田舎は恋しくはならない?」 大地は悲観にはならずに、さり気なく訊いてみた。 「いいえ。懐かしいだとか、田舎の皆はどうしているのかぐらいは、たまに考えますが、恋しくてホームシックになるようなことは一度も。ホームシックになる暇がないぐらいに充実していますから!」 かなでの言葉が嬉しくて、大地は素直に笑顔になった。 確かに全国音楽コンクールのお陰で、とても刺激的で充実した時間を過ごしている。 大地もそうだ。 本格的な受験態勢に入る前に、こんなにも充実した時間を過ごすことが出来るのが楽しい。 かなり忙しいが、楽しくて充実した最高の夏だ。 「大地先輩も、受験と重なって大変じゃないですか? 大地先輩は医学部を受験するし…」 かなでは心配そうに見つめてくれている。 こうして子犬のような澄んだ円らなまなざしで見つめられると、本当に抱き締めてしまいたくなる。 それぐらいにかなでは可愛かった。 「大丈夫だよ。それよりもコンクールを楽しむほうが今は大事だからね。こうして大会に参加するのは、良い気分転換になって、勉強が逆に捗っているぐらいだよ」 「すごい!」 かなでは本当に尊敬してくれているような真直ぐな視線を見つめた。 「大地先輩、ファイナルまで頑張りましょうね!」 「ああ」 かなでが目標に向かってとても純粋で真っ直ぐだから、大地は眩しくなる。 「そうだね。最高のファイナルにしよう」 「はいっ!」 かなでの返事に、大地は幸せな気分で目を細めた。 ふたりで星奏学院の門を潜る。 この瞬間が幸せなのだ。 「今日はいよいよ音合わせだからね。ひなちゃん、ベストを尽くそう」 「はい」 コンクールが終わった時、その時はこうしてふたりで幸せな気分でいられますように。 大地は祈らずにはいられなかった。 アンサンブルの合同練習が始まる。 相手はかなり強敵で手強い。 だが、かなでと一緒に過ごすならば、やはりが良い。 ヴァイオリンのコンディションを見ているかなでのまなざしは真剣そのもので、凜とした美しさに、大地はうっとりとしてしまう。 まるでヴァイオリンの女神のように思える。 かなでがヴァイオリンを奏でている時は、まわりの空気が澄み渡って温かくなる。 それと同時にかなでが別世界の人間のように思えてくる。 大地はそれが寂しく感じる。 かなでの世界に入りたい。 かなでの世界に触れたい。 そればかりを切に願う。 ヴァイオリンのチューニングを終えると、かなでがにっこりと微笑んでくれた。 「大地先輩」 自分だけに微笑んでくれている。 その笑みがあれば、今は何もいらない。 大地はかなでの眩しい太陽のような微笑みを受け止めながら、最高に幸せな気分を味わっていた。 |