熱い暑い夏が終わっても、まだまだ残暑は厳しい。 全国大会が終了し、3年生は正式に引退してしまった。 3年生は受験に向かって走り出している。 一足先に授業も始まっており、かなでの大好きなひとも、次の目標に向かっている。 かなでは二日だけ帰省をして束の間の休息を楽しんだ後、横浜へと戻ってきた。 これでまた次の目標に向かって頑張る。 来年はソロ部門でも頑張りたいからだ。一番のライバルは身近にいる響也だろうが。 久し振り早起きをして、張り切ってお弁当を作った。学校が始まるのは明日からだが、今日はお弁当を作って、大好きなひとと久しぶりに一緒にランチタイムを過ごしたかった。 お弁当を詰めた後、暑さで痛まないように、痛みを防ぐシートをお弁当に乗せて、かつ保冷バッグに入れる。 これで完璧だ。 モモの散歩で通りかかる大好きなひとに渡せば良いから。 かなでは菩提樹寮の門を出たところで待ち構える。 すると大地がやってきた。 可愛い豆柴と一緒に。 「やあ、ひなちゃん、おはよう」 「おはようございます」 かなでは笑顔で呟くと、頭をペコリと下げた。 「お弁当を作りました」 「有り難う。頂くよ。今日も学校は午前中だけだから、こちらに寄らせて貰うよ。庭で一緒に食べようか。庭は風通しが良くて涼しいと、律から聞いているからね」 「だったらお弁当は、野菜室に入れておきますね。痛まないから。麦茶も沸かして冷たく冷やしておきますよ」 「有り難う」 大地の笑顔を見るだけで幸せな気分になり、かなではつい笑顔になる。 「散歩に行こうか」 「じゃあお弁当を野菜室に入れておきますね」 「ああ」 かなではクラシカルなキッチンに入ると、冷蔵庫を開けて素早くお弁当を入れた。 これで大丈夫だ。 かなでが慌てる余りに髪を乱すと、大地はフッと目を細めて笑った。 「ひなちゃん、慌てなくても大丈夫だよ」 大地の大きな手で髪をさらりと直されて、かなでは華やぎと恥ずかしさを感じていた。「じゃあ行こうか」 「はい」 大地はごく自然にかなでの手をギュッと握り締めてくれる。 その強さに、かなでは胸の奥がほんのりと幸せに満たされるような気がした。 「秋に向かっているんだね、昼間はまだまだ暑さは厳しいけれども、朝は随分と涼しくなったよ。モモも余り舌を出さなくなったしね」 「田舎のほうがずっと涼しいですよ。朝なんてカーディガンが必要ですから」 「そうか…。確実に秋は近付いているんだね」 ふたりで季節を感じながらのんびりと散歩をするなんて、こんなにも贅沢なひとときは他にはないのではなかろうかと、かなでは思う。 しっかりと結んだ手のひらは熱いのに、それは決して不快というわけではなく、むしろ離したくはなかった。 「モモちゃんも尻尾を振ってとっても楽しそうですよ」 「そうだね」 元町公園まで来たところで、大地はモモに水をやった。 本当に嬉しそうに一生懸命水を飲むモモに、かなではそこはかとなく癒された。 「可愛いですね、モモちゃん」 「本当に」 かなでは清々しい横浜の空気をめいいっぱい吸い込む。 故郷の空気とはまた違った華やいだ新鮮さがある。 「田舎はどうだった?」 「のんびりとしましたよ。横浜よりも一足先に秋が来ていました。のんびりとして、またこっちで頑張ろうって思えました」 「いつか行きたいね。君の故郷。ひなちゃんや律たちを育んだ町をじっくりと見てみたい」 大地はまるで遠い過去を愛おしむかのように言うと、スッと眩しそうに目を細めた。 「大歓迎ですよ! 是非、来て下さいね。横浜のようにスマートではないですが、空気が美味しくて、のんびりと出来るのが自慢ですから!」 「それは楽しみだ。是非、行かせて貰うよ」 「はい、案内しますからね」 「有り難う」 話しているうちにモモが水を飲み終えて、ふたりは再び元のルートに向かう。 朝のほんのひとときの散歩は、なんて幸せで心を満たすのだろうかと、かなでは思った。 菩提樹寮前までやって来ると、不意に寂しい気分になった。 どうして楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうのだろうか。 かなでがしょんぼりとしていると、大地は微笑みながら、頭を撫でてくれる。 子供扱いはして欲しくないというのに、こうして頭を撫でられると、何故か心地が良かった。 「ひなちゃん、早目に来るから」 「はい!」 大地はかなでに手を振ると、「また後で」と言ってくれた。 大地の背中を見送りながら、かなでは幸せな気分に満たされていた。 大地のお陰で夏休みの宿題も終わっているから、最後の一日はのんびりと過ごす事が出来る。 ヴァイオリンを練習したり、庭の水撒きをしたりして、午前中を過ごした。 ヴァイオリンの調子は、祖父にメンテナンスをして貰ったからかなり良い。 かなではのんびりとしながらも、待遠しく過ごした。 水撒きをした涼しい庭で、ヴァイオリンを奏でる。 とても気持ちが良い。 明日は理事長や星奏の錚々たる先輩方の前でアンサンブルを演奏する予定だから、かなり緊張する。 かなではファーストヴァイオリンてして、ソロも披露する予定だ。 理事長と逢うのは初めてだが、アラフォーの大人の魅了に溢れた人物だと聞いている。 かなでは理事長に逢う事をある意味楽しみにしていた。 普通科から有名ヴァイオリニストになった生徒などを育てたと聞いているからだ。 かなでがヴァイオリンを奏でていると、大きくて頼り甲斐のある優しい雰囲気を感じた。 あのひとがそばにいてくれる。 それだけで嬉しかった。 ヴァイオリンを弾き終わり、目を開けると、そこには大地が立っていた。 「ブラボー、ひなちゃん」 「大地先輩!」 かなでは笑顔で大好きなひてに駆け寄っていく。 「おかえりなさい」 「ただいま」 笑顔で挨拶をして貰えると本当にそれだけで幸せだ。 かなではヴァイオリンを置きに行くと、直ぐにお弁当を、庭の日陰にあるベンチに運んだ。 もちろんお茶を用意してある。 「おしぼりもありますからこれで手を拭いて下さいね」 「有り難う」 ふたりで仲良く肩を並べてお弁当を食べる。 「いつも美味しいお弁当を有り難う。お弁当の試験があったら、君には満点をあげるよ」 「有り難うございます」 大地に褒められるのが何よりも嬉しい。 「出来る限りお弁当作って行きますね。私の分も作るので一緒に」 「有り難う。君にはお礼をしなくちゃね」 「お礼なんて…。あ、ひとつ良いですか?」 「何かな?」 「モモちゃんの散歩に毎日着いていって良いですか?」 清々しい朝に、モモの散歩に行けたら、とても素敵だ。 「解ったよ。これからは毎日、菩提樹寮まで迎えに行くよ」 「有り難うございます」 毎日、大地に逢える。 それだけでも嬉しい。 かなでは踊り出したくなるのをなんとかおさえつけて、微笑みを浮かべた。 ランチの後、ふたりはのんびりと庭を眺める。 「やっぱりここは涼しいね。打ち水もしてあるし」 「打ち水をすると本当に涼しいんですよ」 「じゃあ、もっと涼しくしてあげるよ」 「ホントですか?」 大地は鞄から風流な団扇を取り出すと、パタパタと扇いでくれる。 気持ち良いぐらいに涼しくて、かなでは思わず目を閉じた。 本当に気持ちが良くて、にんまりとしてしまう。 目を閉じていると、このまま眠りたくなる。 うつら、うつら。 いつの間にか極上のまどろみに、意識の総てを支配された。 「ひなちゃん? ひなちゃん。何だ寝ちゃったのか…」 大地はくすりと笑うと、自分の肩を貸して、凭れさせてやる。 柔らかな髪が愛しくて、そのままくしゃりと撫でる。 とても気持ちが好い手触りで、ついにっこりと笑ってしまう。 こうしてじっとしていると、何だか自分まで眠くなる。 「…ひなちゃんのが移ったかな…?」 大地は幸せな笑みを浮かべると、そのまま目を閉じた。 夏の終わりを告げる物哀しい蝉時雨。 ニアは、その音色を楽しみながら、そっと近付く。 「…良いショットだな…」 大地とかなでが、お互いに支えあって眠っているのを見つめながら、くすりと笑った。 |