毎日、音楽に夢中になっているからか、かなでは体調が悪いことに気付かなかった。 親許を離れて寮生活を送っているせいか、気遣ってくれるひとがいないこともある。 かなではとうとう風邪を引いて、洟を何度もかんでいた。 頭がぼんやりとする。 身近にある体温計を使って熱を計ると、8度台もある。 これでは気分が悪い筈だと、かなでは納得する。 体調がもう少しマシな時に、風邪薬でも飲んでおけば良かったと、思わずにはいられなかった。 今日が土曜日で良かった。 学院の授業はかなり充実しているから、一度たりとも疎かにはしたくないのだ。 ベッドで眠っていると、携帯電話にメールが来る。 ひなちゃん 具合が悪いそうだね。 直ぐに行く 大地 恐らくは律からでも聞いたのだろう。 こうして心配してくれることは、かなでにとっては心強くて嬉しい。 兄弟のような律と響也。 頼りになる横浜の親友ニア。 そして誰よりも支えてくれているのが恋人の大地。 かなでにとってはかけがえのないひとたちなのだ。 大地はかなでにとって、本当に一番コアな部分で支えてくれているひとなのだ。 だからこうして病気になった時などは、誰よりも頼りになる。 大地が来るのであれば、本当は綺麗にして待っていたいところなのではあるけれど、そうすることは、今日に限ってはかなり難しい。 そこまでの気力がないというのが、正直なところなのだ。 躰が怠くて、思うように動かないこともあるのかもしれない。 そんなことをかなではぼんやりと考えていた。 暫く、うとうとしながら、かなでは夢のような現実のようなよく分からない気分で漂っていた。 ノックをする音が聞こえる。 「ひなちゃん、良いかな?」 「どうぞ…」 かなでが躰をゆっくりと起こすと、大地が入ってきた。 「ひなちゃん、具合はいかがかな?」 「…何だか、ぼんやりとしています…」 「そう…」 大地は心から心配してくれているようで、眉を顰めた。 「熱は…」 大地の大きな手のひらが額に宛てられる。 何だか包まれているような優しさを感じられて、かなでは思わず目を閉じた。 とても安心する。 こんなにも安心する手のひらは他にはないのではないかと思う。 「…かなりの熱だね…」 「8度台ありました…」 「ったく、どうしてここまで放っておいたんだ!?」 大地は厳しい口調で言いながら、眉を顰める。 かなではその表情を見て、ついしょんぼりとした。 怒られるのが当然だと言われれば、当然なのだが。 大丈夫だと思っていた自分自身の過信なのだから。 「…ごめんなさい…」「ごめん、怖かった?」 かなでが泣きそうになりながら謝ると、大地は自分の表情の厳しさに気付いたようだった。 「ひなちゃん…、君の一番近くに俺がいるのに気付いてあげられなくてごめん…」 「大丈夫です…。私も健康だから大丈夫だって思い込みすぎたのも原因だから…」 かなでが何とか笑おうとするが、やはり熱のせいで上手くいかなかった。 「ひなちゃん、この近くでうちの親戚が内科医をしているから直ぐに行こうか。診てもらって薬を貰えば安心だからね」 「…はい…」 かなでは素直に従うことにする。 この状態であれば、病院に行くことが賢明に思えた。 「大地先輩…、着替えたいんですけれど…」 「え、あ、ごめんっ」 支度をする間も見守るつもりだったらしく、大地は慌てていた。 着替えることが頭には入ってはいなかったのだろう。 大地らしいと言えば、そうなのだ。 「じゃあ下で待っているから」 「はい。有り難うございます」 大地が部屋から出ていった後で、かなでは素早く着替えた。 いつもよりもやはり時間がかかってモタモタとしてしまう。 熱のせいだとかなでは思った。 熱でぼんやりとしながら、かなでは大地が待つ、一階の食堂に向かった。 「お待たせしました…」 顔を青白くさせていくと、大地が直ぐに駆け寄ってきてくれた。 「ひなちゃん、大丈夫!?」 「だ、大丈夫です…」 「なら、良いんだけれど…」 大地は直ぐにそばに寄ると、かなでの小さな手をギュッと握り締めてくれた。 こうしてくれていると本当に安心する。 かなではホッとしながら、大地を見上げた。 「保険証は用意出来た?」 「…はい…。大丈夫です」 「うん。だったら行こうか」 大地はしっかりと手を繋いだままで、玄関へと向かう。 「自転車だから、乗っていれば直ぐに着くよ」 「はい。有り難う」 かなでが大地に連れられて出ていくと、ニアが心配そうにやってくる。 「榊大地、かなでを頼んだ」 「ああ。解ってる。ちゃんと送り届けるよ」 大地はニアに約束をした後、庭に出た。 「車で送ってあげたいところだけれど、まだ仮免の身ではうちの車を運転させて貰えなくてね。今日は自転車だよ」 「自転車も好きです」 かなでは熱の中でも幸せな気分を味わいながら、くすりと笑った。 大地に自転車に乗せて貰う。 荷台に座って、大地の躰に腕を巻き付ける。 それだけでドキドキし過ぎて、更に熱が上がってくるのではないかと思った。 「ひなちゃん、躰が随分と暑いけれども…大丈夫かな?」 「だ、大丈夫です。有り難うございます…。大地先輩…」 まさかドキドキし過ぎて、躰までが熱くなっているなんて、かなでには言えなかった。 恥ずかしくてしょうがない。 大地の広い背中に、ふと頬をあてがう。 そうすると何だかとても心地好くいられた。 ドキドキするのに、かなり安心した。 かなでは大地の背中に包まれていると、本当に幸せな気分になれた。 このままずっとこうしていられたら良いのにと、思わずにはいられなかった。 「ひなちゃん、大丈夫かな? 後少しだから、頑張ってくれ」 「…はい。有り難うございます…」 「うん。医者が終わったら看病するから」 「…先輩…、勉強があるんじゃ…」 大地にこれ以上は迷惑は掛けられない。 そんなことを思っていると、大地の柔らかい声が聞こえた。 「大丈夫。看病しながら勉強は出来る。それに、ひなちゃん、君を看病しないと逆に心配で何も出来なくなってしまうから」 大地は本当に優しく言ってくれる。 それが嬉しかった。 病院に到着すると、大地が直ぐに連れて行ってくれた。 かなでは、待合室に座っている間も、さり気なくではあるが、手を握っていてくれた。 「小日向さん」 「はい」 名前を呼ばれて、かなでは診察室に入る。 大地も一緒に入ってきた。 「叔父さん、宜しくお願いします」 「はい。ちゃんと診ないとお前に怒られるからね」 「はい。きちんと診てあげて下さいね。彼女は将来、素晴らしいヴァイオリニストになるんですから」 「解ったよ」 大地の叔父はテキパキと診察をしてくれる。 「…寝冷えによる風邪だね。薬を出しておくからきちんと飲みきるように。きちんと飲んで、きちんと食べなさい。そうすれば直ぐに治るよ」 「はい、有り難うございました」 かなでは何度か頭を下げると、待合室へと向かった。 薬を貰って、病院を出る。 帰りも大好きな大地の背中に総てを任せてゆらゆら揺れる。 それがとても幸せだった。 寮に戻って、軽く昼食を取ってベッドに潜り込む。 大地が参考書片手に直ぐそばにいてくれる。 かなでは安心して目を閉じる。 こうして大好きなひとのそばにいられるのならば、たまには風邪も良いような気がした。
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