名前を呼ぶのは照れ臭い。 いつも誤魔化すように、名字で呼んでしまう。そしていつもたっぷりと後悔してしまう。 どうして素敵な名前で呼んであげられなかったのか。なんて…。 ちゃんと親しみを込めて、“香穂ちゃん”と呼んで貰っているのに。何時まで経っても、小さな女の子のような照れが先行してしまい、それから先を言えなくなってしまう。 今日こそはちゃんと「和樹さん」或いは「和樹先輩」と言えるように、こころの準備を整えてきたつもりだ。 なのになかなか言い出せなくて、ただ熱くなるぐらいのドキドキが支配してしまっている。 デートをしようと約束して、今日こそ名前で呼ぼうと決めてきたのに。 「香穂ちゃーんっ!」 こちらが元気をたっぷりと貰ってしまうぐらいのエネルギーを漲らせて、和樹が子犬のように走ってやってくる。 自分よりも年上なのに可愛く思えてしまう。 くすりと笑っていると、更に力を増したこちらまで幸せになるような笑顔を、和樹は向けてくれた。 「お待たせ!」 「火原先輩、待ってましたよ。とても逢いたかったです」 やはり口についたのは、火原先輩。どうしても、“和樹さん”と呼ぶことが叶わない。 「おれも凄く香穂ちゃんに逢いたかった! 最近、大学の授業だとかバイトとかで忙しかったから、香穂ちゃんに逢えなくて寂しかったんだ」 ストレートに気持ちを言われて、胸の奥がくすぐったくなるぐらいに幸せになる。 「メールだとか、携帯だとかでお話するのも楽しいですけれど、こうして火原先輩と逢ってお話出来るのは何よりも楽しいです」 和樹の前だと、素直な恋心を伝えることが出来る。なのに肝心の呼び方が、まだまだ上手くいかない。 香穂子は幸せに笑いながらも、ハードルを越えられない自分に、少し苛立ちを覚えていた。 胸の奥底で、恥ずかしさと“和樹”と呼んでみたいという欲望が、ちらちらと揺れる。 「香穂ちゃん、どこか行きたいところはある?」 「火原先輩と一緒だったら何処でも楽しいです。今日は地元でぶらぶらしたいです。中華街行ったり、海を見に行ったり…」 本当に和樹と一緒にいれば、それが何処であろうとも明るいオレンジ色に辺りが染まる。 それがこころにとても気持ちが良い。 「じゃあそうしようか! 中華街で食べ歩きしたり、海を見たり、観覧車に乗ったりしようか」 「はい! 嬉しいです! とっても!」 香穂子が明るく弾むように言うと、和樹もまた真夏の太陽よりも明るい笑顔をくれた。 「行こう」 「はいっ!」 さり気なくしっかりと手を握り締められて、全身がピンクの染まったようにときめいてくる。 手を繋いでお互いの温かさを確かめるだけで、とても幸せを感じていた。 「おれさ、来年は香穂ちゃんと大学のキャンパスをこうやって手を繋いで歩くのが夢なんだ」 「受験頑張ります」 香穂子が決意を秘めたように握り拳を作ると、和樹は嬉しそうに何度も頷いてくれる。 「うん。香穂ちゃんならきっと受かるよ。大丈夫、おれが保証する」 「金澤先生には、今の努力をちゃんと続けたら大丈夫だって言われてますけれど…、やっぱり私は三年から転科して音楽科に移ったから、みんなよりは人一倍努力しないといけないです。だけどそれは、とっても気持ちが良い努力なんですけれどね!」 「うん! 香穂ちゃんは音楽をこころから楽しんで、愛しているから、きっと大丈夫だよ」 「火原先輩にそう言われると、百万倍の元気が出ます」 「だったらいくらでも言ってあげるよ、香穂ちゃん!」 和樹を照らす陽射しよりも明るい笑顔を向けられて、胸の奥がきゅんと音を立てる。どうしてこんなにも可愛くて、素敵なんだろう。 香穂子はドキドキが止まらなくて、ずっと肌を紅潮させてしまう。 楽しく話をしながらも、香穂子はひたすら和樹の横顔を見つめた。まるで逢えない時間を埋めるかのように、ただひたすら和樹を見つめずにはいられなかった。 「香穂ちゃんっ!」 「えっ…?」 和樹の焦るような声が聞こえたのと同時に、その腕が香穂子を包み込むかのように躰を引き寄せてきた。 心臓が痛くなるほどに大きな鼓動をひとつ鳴らす。 和樹の腕が香穂子の総てを守るかのように包み込んできて、目眩をしてしまいそうなほどにのぼせ上がってしまった。 逞しい腕。 ずっと少年らしい無邪気なひとだと思っていたのに、その腕も胸も、意識をしてしまうほどに男だった。 くらくらしてどうしようも出来ないぐらいに緊張してしまう。 和樹も男性なのだ。華奢なように見えて、ずっと力も強く逞しい。 何だかいつもと違うドキドキが、香穂子に襲いかかってきた。 「大丈夫? 香穂ちゃん」 「…大丈夫です。有り難うございます…」 こうしてしっかりと抱き締められていると、窒息してしまうんじゃないかと思ってしまう。 なのに、何時までも離さずに抱き締めていて欲しいと、強く願わずにはいられない。 一瞬間、ふたりの視線が絡み合う。それが想像以上に甘くて、きらきらと輝くかけがえのない宝石のように見えた。 「…ご、ごめん。中華街まで歩こうか」 「はい」 ずっと躰のどこか一部を触れ合っていたくて、しっかりと指を絡めたまま離さなかった。 中華街を歩いていると、可愛いアクセサリーの店を見つけた。リーズナブルで、高校生である香穂子にも 充分に買える価格設定になっている。 「少し覗いて良いですか?」 「うん、見ようよ!」 香穂子は嬉しくて和樹に微笑むと、早速、アクセサリーが飾ってあるコーナーに張り付いた。 「このオレンジのお花のリング可愛くですねー。値段もお手軽だし、買っちゃおうかなあ。フリーサイズだしおもちゃだから、手軽につけられるし」 香穂子が手に取ろうとした指輪を、和樹が先に取ってしまった。 「これ、香穂ちゃんに似合うよ。おれが買うね!」 香穂子が言う前に、和樹は指輪を取り上げるかのようにその手に持つと、スタスタと歩いていってしまった。 リング。 それがたとえおもちゃに毛が生えた程度のものであったとしても、和樹から貰うのは特別なもののように思える。 まるで永遠の約束を貰ったような感覚すら覚えてしまう。 和樹はレジから戻ってくると、香穂子の手をそのまま取って、店を出た。 「ちょっと儀式っぽいことをしたいんだけれど良いかな?」 「儀式?」 「うん。観覧車、乗りに行こうよ」 和樹は香穂子をエスコートするかのように、みなとみらいに向かって歩いていった。 儀式だなんて特別なことをするようで、ドキドキが止まらなくなる。 歩いている間も、はたまた観覧車の順番を待っている間も、ずっとずっと緊張していた。 順番がやってきて、和樹は向かい側に座ると、照れ臭そうな笑みを浮かべてくる。それがとても可愛い。 「…香穂ちゃん、手を出して貰って良い?」 「はい…」 素直にドキドキしながら左手を出すと、和樹は何処か緊張の面持ちで指輪を取り出した。 「…緊張するね。だけどこれは予行演習だから…」 和樹はまるで自分に言い聞かせるように言うと、香穂子の中指に指輪を入れようとする。 「…間違った…。こっちだよね」 今度こそ、左手の薬指に指輪がはめられて、香穂子はこころが甘く震えるのを感じた。 「…香穂ちゃん、この薬指、いつか大切なものを渡すときのために、今から予約していて、良いかな…?」 「火原先輩…」 嬉しくてたまらなくて涙を瞳に浮かべると、火原は慌てたように香穂子を見つめた。 「か、香穂ちゃんっ! おれなんか変なことしたっ!?」 「いいえ、嬉しかったから…」 香穂子は泣き笑いを浮かべながら、今なら素直に名前が呼べるような気がした。 「…和樹先輩…」 「初めて名前をちゃんと呼んでくれたね」 優しい和樹の声に、香穂子ははにかむように頷く。 「これからもずっと、名前で呼んでね、香穂ちゃん」 コクリと頷いた瞬間和樹の顔が近付いてくる。 重なった唇は、幸せ色の味がした。 |