*桜のワルツ*


 横浜の街が、桜の天蓋で覆われる季節。
 いつもなら香穂子のこころは弾むのに、今年に限ってはそうでもない。
 春が来てしまったら、火原と学校で逢う事はなくなってしまうから。
 昼休みにエントランスで待ち合わせをして、購買のパンの獲得競争をし、その戦利品を森の広場で食べる。
 なんて楽しいひとときを過ごせなくなるから。
 新学期になったら、エントランスや森の広場で、火原の姿を探しては、感傷に浸ってしまうだろう。
 高校生と大学生。
 その溝は致し方ない事。
 なのに寂しくてたまらなくて、わがままな自分がいる。
 また溜め息が出た。
 溜め息が大き過ぎて自分でも驚いてしまうほどだ。
「…不甲斐ないなあ…。もっと前向きに考えられたら良いのにな…」
 ポツリと呟くと同時に、タイミング良く携帯が鳴り響いた。
 着信音は“ジ・エンターテナー”。火原だ。
「はい…?」
 ドキドキしながら、ずっと聞きたかったひとの声を聴いた。
 携帯を持つ指先が、小さな女の子のように震える。
「香穂ちゃん! 桜が綺麗だから、お花見に行かない?」
「あっ! 行きますっ! 行きたいですっ!」
「明日さ、時間が取れそうなんだ。だから香穂ちゃんと一緒に桜を見たいなあって思って!」
「じゃあ私、お弁当を作って行きます!」
「ホント! おれ、すげー嬉しい! 楽しみにしてるよ!」
 電話を通した機械的な火原の喜ぶ声に、香穂子もまた微笑まずにはいられない。
 火原は不思議だ。声を聴いているだけで、たっぷりと元気を貰うことが出来る。
「一生懸命に作りますから、楽しみにしていて下さいね!」
「うん! すげー楽しみにしてるよ!」
 携帯電話を切ったあとも、まだ耳元には火原の元気な声が残っている。それを宝物のように何度もリフレインさせながら、香穂子はにんまりと笑った。

 お花見の当日、日野家のキッチンは戦争状態になっていた。
 香穂子はテーブルのうえに材料を並べ、ばたばたと焦っている。
「どうしてカツサンドをメニューに入れるの! おにぎりだけでも良いじゃないのっ!」
「カツサンドは外せないんだよっ」
「他にいっぱいおかずはあるでしょ? とりの唐揚げ、だし巻き、ブロッコリーとイカのいためもの、キュウリをハムで巻いたやつに、野菜スティック、御坊の牛肉巻き…。他に何がいるのよ。お母さん、お陰で朝からてんてこ舞いじゃないの!」
 香穂子の料理の腕はまだまだ発展途上で、母親のように沢山の料理を作れるわけではない。だからこうして手伝って貰っているのだ。
 手伝って貰っていると言っても、香穂子がアシスタントのようなものだった。
「もうっ! お弁当作って行くなんて、ほいほい安請け合いするんじゃないのっ! 今日だけだからね」
「はーい」
 香穂子は舌をペロリと出しながら、全く反省なんてするはずもなかった。
 母親に手伝って貰ったお弁当をクラシカルに風呂敷に包み、ヴァイオリンを片手にお花見公園へと向かう。
 こんな時ぐらいはヴァイオリンを置いて行けば良いのにと言われたが、勿論、そんなことは考えるはずもなかった。
 ヴァイオリンは火原と結び付けてくれた、大切なものなのだから。
 約束の場所に一足早く着いて待っていると、火原が走ってやってくる。その片手には、勿論トランペットが握り締められていた。
「香穂ちゃん! お待たせー」
 火原は、向日葵が太陽に向けるような眩しい笑顔を浮かべると、照れたように香穂子を見つめる。
 こうしてはにかむ姿がとても可愛いと思ってしまう。
 火原の視線が、香穂子が持つ風呂敷に止まった。
「お弁当だねー!」
「はい、たっぷりと食べましょう!」
「おれ、マジで嬉しい」
 火原の笑顔を見ていると、朝からの疲れや騒ぎなんて吹っ飛んでしまう。
「桜を見ながら食べましょう」
「うん、有り難う! あ、荷物持つよ、おれが」
「有り難うございます」
「いいって」
 火原は軽々と風呂敷を持つと、本当に嬉しそうにステップを踏みながら歩きだす。香穂子もつられて、同じように歩いた。
 今日は見事な満開日。
 ありとあらゆるところに花見客がひしめき合っていた。
 子猫の寝息ですらも吹き飛ばされてしまいそうな花びらが、風に乗って美しく踊っている。
「桜ってさ、何だかワルツでも踊っているみたいだよね。“花のワルツ”に乗って、きっと踊っているよ」
「そう見えます」
 はらり、はらり、はら、はら。そんなリズムで桜の花びらは優雅にワルツを踊っていた。
 柔らかな春の光が、まるでスポットライトのように花びらをきらきらと輝かせている。
 火原はご機嫌そうに花のワルツを鼻歌で歌い、楽しんでいた。
 いつしか香穂子も同じリズムで鼻歌を刻んでいる。
 ふたりで桜の奏でる無言の音楽を聞くだけで、とても楽しかった。
「さあ、お弁当にしませんか?」
「待ってました!」
 拍手をしながら、火原はニッコリと笑う。とろとろに甘く溶けてしまうような笑顔に、香穂子は思わず赤面してしまっていた。
 なんて可愛いんだろうか。
 なんて素敵なのだろうか。
 こちらがうっとりとしてしまうような笑顔だ。
 ふたりでレジャーシートを敷いて、そこにお弁当を広げる。
「こういうところでお弁当を食べるのは最高なんだよね! しかも香穂ちゃんが手作りしてくれるなんて、これ以上のランチはないよねー」
 火原の期待がかなりのものだったから、香穂子はドキリとせずにはいられない。
 過大の期待を受けるほどのお弁当ではないのにと、逆に恐縮してしまう。
 小皿を取り出して、いよいよお弁当の時間。
 味付けの大半は母親がしてくれたから、ちゃんとした味になっているのは解ってはいるが、それでも緊張はした。
「わあっ! カツサンドだ! 有り難う! 香穂ちゃんっ!」
 火原は早速皿に次々とおかずを乗せていく。
 火原が口にするまで、ドキドキし過ぎて香穂子は食べることなんて出来なかった。
「いただきまーす! うん! 凄い美味いよ! カツサンドがむちゃくちゃ美味しい!」
 言葉だけではないことぐらい、火原の食べっぷりを見れば十分に解った。
「マジで美味いね」
「有り難うございます」
 本当は母親が殆ど作ったが、それでも嬉しい。
「香穂ちゃんも食べようよ。このままだと俺が食べちゃうよっ!」
 興奮気味に本当にこころから喜んでくれる火原が嬉しくて、香穂子の表情は緩みっ放しだった。
 火原のこの表情を見たかったから、頑張って良かったと思う。
「じゃあ私も食べちゃおうっ!」
「うん! ふたりでもりもり食べようよ!」
「はいっ! もりもり食べましょう!」
 桜色のひかりの下で、こうして大好きなひとと笑いあえるなんて、なんて素敵なことだろうと思う。様々なプラスのエネルギーが湧いて来る。
 火原を見ているだけで、たくさん元気になれた。
 だが、これからは大学生と高校生。以前のように元気のチャージは出来なくなる。
 寂しさがまた溢れて、香穂子は微笑みを引っ込めてしまった。
「…香穂ちゃん?」
 急に塞ぎ込んだ香穂子を、火原が心配そうに見つめて来た。
「…火原先輩、大学に行ってもこうやって、笑顔をチャージしてくれますか?」
 こころの震えが、瞳に涙を滲ませる。
 泣きそうな香穂子を包みこむかのように、火原の瞳が優しい笑みに覆われた。
「香穂ちゃん…」
 泣く前に涙を阻止するかのように、火原は香穂子の頬に手を宛てて微笑んだ。
「笑って、香穂ちゃん」
「あ、はいっ…」
 火原に釣られて笑うと、柔らかく頷いてくれる。
「大学生になっても、おれはずっと香穂ちゃんと一緒にいるよ。ずっとずっと一緒にいるよ。今までみたいに毎日逢えるわけじゃないかもしれないけれど、それでも、出来るだけ逢えるようにしようよ。ね? だから笑って?」
 火原に言われると素直になれるのと同時に、心が暖かくなる。
「はいっ!」
 香穂子が力強く返事をすると、火原が頭を撫でてくれた。
 火原の笑顔を見ていると、こころが素直になれる。
 ふと火原の唇の横に、ソースがついているのに気付き、香穂子はくすりと笑った。
「火原先輩、唇のはしにソースがついてます」
「えっ、マジで!?」
 焦る火原が可愛いと思って見ていると、逆にこちらをじっと見つめられてしまった。
「え? ど、どうされました?」
「ついてるよ」
「何がですか?」
 ご飯粒なんて付けたかななんて思いながら焦っていると、ゆっくりと火原の唇が近付いて来た。
 桜色の甘いキスが、緩やかに唇を塞いだ。
 優しい触れるだけのキス。
 そこから感じる温かな優しい愛情に、香穂子の不安は吹き飛んでいた。





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