*ヴァレンタイン協奏曲*

火原編


 バレンタインが近付くと、女の子はそわそわわくわく。
 家庭科の授業も、チョコレートケーキを作ったり、学校もバレンタインに協力的だ。
 この瞬間だけは、香穂子は普通科にいて良かったと思う。
 音楽科には、音楽通論を始めとする音楽関係の授業が沢山あるからか、家庭科はなく、香穂子たち普 通科生徒とは違うカリキュラムになっている。
「香穂、三年生が好きだとキツいよねぇ! だって三学期は自由登校じゃん! 後、会えると言えば、卒業式かあ…。大学決まってる先輩だったら、殆ど来ないしねえ…」
 友人の言葉を聞きながら、香穂子はドキリとする。
 火原は既に大学への進学を決めているから、学校に来ても来なくても自由な状態だ。
 金澤に頼まれて、オケ部の面倒を見るために、他の三年生よりは頻繁に来ているが、それでもいつもに比べたら学校で会える頻度は少ない。
 だからなのか、最近少しだけ学校がつまらないような気になっていた。
 家庭科室に向かうためにエントランスを横切るところで、香穂子の視界が華やいだものになった。
「香穂ちゃん!」
 明るい声に人懐っこいほのぼのとした笑顔が、香穂子のこころに真っ直ぐと飛び込んできた。
「火原先輩!」
 パタパタと嬉しそうに走ってくる姿を見るだけで、どんな甘いケーキよりも幸せで美味しい気分になった。
「先輩は、学校に用事ですか?」
「うん。金やんに頼まれてるオケ部のアレンジを持ってきたのと、後は練習しに来たんだ。附属から行くと、かなりしっかり下準備をしたほうが良いって、王崎先輩からアドバイスを受けたから」
「そうですか。頑張って下さいね」
 火原と話しているだけで、香穂子はほわほわとした幸せのバルーンのなかに入り込んだような気分になる。
 楽しくて、幸せな気分はこれ以上ない。
「香穂ちゃんはこれから授業?」
「はい。家庭科なんです。今日はチョコレートケーキを作るんですよ」
「へえー、美味そうだなあ。おれも食べてみたいよ」
 まるで小さな子供のように純粋に言う火原が、香穂子には愛しく思える。甘くて華やかなドキドキが、極上のチョコレートよりも楽しくも素敵な気分を味合わせてくれる。
「授業、そろそろ始まるよね。あ、邪魔してごめん。後でメールするからさ」
 火原のしゅんと残念そうに眉を下げる表情に、香穂子も離れがたい気持ちになる。
「解りました。待っています。あ、先輩っ!」
「何?」
 行こうとした火原を呼び止めると、不思議そうにこちらを見つめて来た。
「二月十四日は学校に見えられますか?」
「二月十四日? ああ、来るよ! その日はおれがアレンジした曲の、オケ部での合わせがあるからさ! その日、何かあったっけ!」
 爽やかにも堂々と何の日だと訊かれてしまい、香穂子は苦笑いをした。だがそれが火原らしいといえばらしいのだが。
「一緒に帰れるのなら、帰りたいって思って…」
「うん! 一緒に帰ろうよ! 久しぶりに香穂ちゃんと中華街で肉まんを食べたいし!」
「そうですね。楽しみにしています」
 香穂子が明るく笑うと、火原は走って音楽科棟へと向かう。
 火原の後ろ姿を見送った後で横を見ると、友人は既にいなかった。

 家庭科の実習はタイムリーにチョコレートケーキ。
「チョコレートケーキは、生クリームを使ったケーキと対照的な名前がついています。『悪魔のケーキ』だなんて呼ばれていますよ。きっととろけてしまうほどに、誘惑な美味しさがあるからでしょう。けれどあなたたちには。本当の意味で『天使のケーキ』になるかもしれないから、頑張ってね」
 家庭科教師はにっこりと楽しそうに微笑んでくれている。
 甘くて誘惑がいっぱいの『悪魔のケーキ』
 恋の魔法を与えてくれるのだろうか。
 香穂子は火原の無邪気な笑顔を思い浮かべながら、生地を丁寧に練っていた。
「香・穂!」
 天羽が含み笑顔を浮かべながら、じって香穂子を見つめてくる。まるでパパラッチのような視線に、香穂子は疚しさの余りに耳まで真っ赤にさせた。
「香穂ー、どうせ火原先輩のことでも考えながら、生地を練っているんでしょー」
 天羽はスクープを見つけた記者のように香穂子にすり寄って笑いかけてきた。
「そ、そんなことないもんっ!」
「そんなことあるんでしょう? 全く香穂はすみに置けないなあ」
 天羽はとことんまで香穂子をからかうのが楽しいらしく、何度も肩をツンツンと小突いてきた。
「恥ずかしいよー」
「大丈夫だって! 香穂の手作りお菓子なら、いくら鈍感な火原先輩でも、熱い恋心に気付かないはずがないじゃない? いいなあ可愛いなあ! ふたりともほのぼのカップルだから、こっちも見ていて幸せになるんだよねえー」
 天羽は言いたいことを言いながら、ケーキの生地が入ったボールをしっかりと抱き締めていた。
 本当にバレンタインは上手く行くだろうか。
 生地を練る手が小刻みに震えていた。

 出来たチョコレートケーキは、バレンタインの予行演習として、火原の練習の後に渡そうと思っていた。
 予行演習のくせに心臓がシンバルのリズムよりも速くなる。こんなことなら、本番はどうなってしまうのだろうかと、我ながら思ってしまった。
 授業が終わり、ヴァイオリンの練習前に、香穂子は火原にそっとメールを送っておいた。
 一緒に帰りたいと。
 オケ部にいると、十把ひとからげの後輩になってしまうから。
 ドキドキしながらヴァイオリンを弾くものだから、上手くいかなかった。
 視線で火原を追い、本来見なければならない楽譜から気を逸らすものだから、結果は散々と言っても良かった。

 ようやく練習が終わり溜め息を吐いていると、火原が声を掛けてきてくれた。
「香穂ちゃん、帰ろうか」
「はい」
 ふたりで並んで校門を出ると、鼓動がヒートアップしてくる。
「香穂ちゃん、寒いね」
「寒いですね」
 ふと、火原の手が、香穂子の手をはにかむように包み込んでくる。
「お互いに手袋代り」
「は、はい」
 お互いに耳まで真っ赤にして手を繋ぐものだから、直ぐに温かくなる。
 ドキドキしながら熱い吐息を吐くと、香穂子は火原に話し掛けた。
「…わ、渡したいものがあるんですけれど…」
「おれも! 偶然だねっ!」
 お互いに引きつった笑顔を浮かべて、牽制しあった。
 溜め息を吐くのも同じタイミングで、ふたりは思わず顔を見合わせた。
「香穂ちゃんからどうぞ」
「ひ、火原先輩からどうぞ」
「じゃ、じゃあおれから」
 譲り合ってもしょうがないので、火原は背筋を伸ばして香穂子を見た。
「これ、香穂ちゃんに」
 手渡されたのは、可愛いピンクの御守り。鈴が付いていてとても愛らしい。
「有り難うございます」
 嬉しくてしょうがなくて、香穂子の心臓は激しいリズムを刻む。
「どうも有り難うございます」
「今度は香穂ちゃんが受験だろ? 同じキャンパスに通えるようにおまじない」
 照れくさそうに伸びやかに呟く火原の表情のひとつ、ひとつがとても可愛いくて愛しく思う。
 目の縁を紅くして照れる姿は、本当に魅力的だ。
「有り難うございます。大事にしますね」
「うん、それはおれとお揃いなんだ。おれも大学でめいいっぱい頑張れるようにって。兄貴にお揃いで貰ったんだ」
 火原は誇らしげに、香穂子に色違いの御守りを揺らして見せる。
 ふと御守りに書かれた文字が気になろ、香穂子は自分のものと見比べた。
 意味を知るなり、香穂子は嬉しくて真っ赤になりながら笑った。
「火原先輩、それって、『縁結び』の御守りですー」
「えっ!?」
 火原は口を押さえると、顔から火が出てしまうのではないかと思うぐらいに顔を真っ赤にさせる。
「え、縁結びも、嬉しいですよ…?」
「あ、う、うん」
 火原は香穂子と結んだ指にギュッと力を込めると、まるで小さな子供のように大きく手を振った。
 縁結びの御守りのおかげで、何だか勇気が出るような気がする。
「火原先輩、…これ、食べて下さい。家庭科の調理実習で作ったんです」
 ラッピングをしたチョコレートケーキを差し出すと、火原は大きく瞳を見開く。
「いいの? おれなんかで!」
「火原先輩に渡したかったんです」
「有り難う、有り難う! おれ、すげぇ嬉しいよマジで!」
 今にも飛び上がって踊り出しそうな火原を、香穂子は目を細めながら見つめる。
「予行演習ですから。本番はもっと美味しいものをプレゼントしますから!」
 香穂子が決意を秘めたように言うと、火原は一瞬きょとんとした。
「本番?」
「バレンタインデイです」
「あーっ!」
 思い出したように言うと、火原は爽やかに照れた笑みを浮かべた。
「じゃあ本番は香穂ちゃんのチョコレートだけを、楽しみにしているね!」
「はいっ!」
 ふたりで一歩ずつ上がっていく恋のステップ。
 のんびりでも明るく視界が開けているようなきがした。





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