*ふたりだけの休日*


 初夏の晴れた日の陽射しは大好きだ。
 甘くて温かでふんわりとした匂いがするから。
 こんな日に洗濯をして、きゆ布団を干したら最高だといつも思っている。良い匂いのした布団にくるまって眠れるなんてこれ以上幸せなことはない。
 そして、窓を開けてさえいれば入り込んでくる緑の匂いがした風は、こころも躰も清々しい気分にさせてくれる。
 こんなご機嫌な日だから、我が儘なんて言わない。
 こんなご機嫌な日だからこそ、あくせくせずにのんびりしたいと思う。
 ベランダに出るはきだし窓の横にもたれて眠る金澤を眺めていると、このまま起こすのが勿体ない気分になった。
 秘密、ひみつ、ヒミツの恋。
 けれどもこんなにご機嫌な日があれば、微笑んでいられる。
 洗濯が終わった後、香穂子は金澤の傍らにちんまりと腰を下ろした。
 世間はゴールデンウィーク。デートに勤しむものが多いなかで、ふたりはこうしてインドアデート。
 しかも、デートというよりは、香穂子が金澤の世話をしにきているといったほうが正しい。
 それでもこんなにご機嫌な風が吹き抜ける日だから、幸せでしょうがなかった。
 金澤の眠る姿を見つめながら、香穂子は目を細めた。
 教師をする傍らで再び歌い始めた金澤を見つめる。
 充実しているとはいえ、相当疲れているのだろう。
 このまま大騒ぎすることなく、静かにしてやりたかった。
 香穂子は金澤の肩にぴっとりとくっついて、そのまま壁に凭れて目を閉じてみた。
 開け放たれたベランダから、カーテンを通り抜けた風が吹き込んで来てとても気持ちが良い。
 このまま眠ってしまいそうになるぐらいの気持ち良さだ。
 香穂子は口角を上げると、金澤とこの心地好さをシェアするような気持ちになりながら、ゆっくりと夢の世界に入っていった。

 どれぐらいうつらうつらと夢と現実の世界を彷徨っていたのかは解らない。
 気がつくと、金澤が窓辺で空を見ている姿が入ってきた。
「…先生」
「起きたか?」
「私、どれぐらい寝てたんだろっ」
 香穂子が慌てて起き上がろうとしたタイミングで、お腹が大きく鳴り響く。
 余りに大きな“お腹が空いた”サインだったせいか、香穂子は真っ赤になりながら慌ててお腹を押さえ付けた。
「腹が減るのは健康の証拠だ、香穂子」
 金澤は楽しそうに笑うと、香穂子に手を差し延べる。
「昼メシでも食いに行くか。近所で申し訳ないけどな」
「有り難うございます」
 差し延べられた手が大きくて温かかったから、香穂子は金澤の手をギュッと握り締めた。
「俺が行きつけの店だから、洒落たもんじゃないがな」
「充分ですよ、先生…あっ…」
 金澤は香穂子の唇を人差し指で軽く押さえると、困ったような微笑みを向けてきた。
「“先生”…は、禁句だろ?」
「…あ…、ひ、紘人さん…」
「さんづけは余り好きじゃないが、ま、この際はよしとしますか」
 金澤は香穂子の手を握り締めたままで立ち上がらせると、香穂子の乱れた前髪をくしゃりと撫でた。
「行くか」
「はい」
 ふたりで手を繋いで、ぶらぶらと歩き出す。
 香穂子も金澤もサンダル履きで、肩が凝らない散歩を楽しむ。
「緑が綺麗だな」
「そうですね。風も気持ちが良いし、緑も瑞々しくってのんびりとお散歩をするのには、こんなに気持ちが良い季節はないですよね。何だか贅沢しているみたい」
 香穂子はこころから贅沢をしていると思っている。
 こんなに素敵な日に、金澤と堂々と手を繋いで歩くことが出来るなんて、思ってもみなかった。
 神様から授かった最高のゴールデンウィークだ。
 香穂子はほんのりと頬を染めながら、何度も金澤を見つめては、喉がからからになるまでドキドキしていた。
「先…、紘人さんとこうしていられるのが、凄く嬉しいんだよ。だって、こうして手を繋いだりするのは、なかなか出来ないから…」
 人目に憚る恋。
 何の悪いことはしていないというのに、ふたりはただ“先生と生徒”であるがゆえにこうなってしまう。
 後少しでその“罪”は消えるが、それがひどく長いもののように思える。
「あら、金澤くん、あなたいつ結婚したのっ!」
 商店街を通り抜けていると、いきなり見知らぬ八百屋の中年女性に声を掛けられてしまい、香穂子は驚いた。
「まあ、嫁さんと言うよりはその、ま、近くはあるんだか…困ったなあ…」
 金澤は照れと困惑が混じったような顔をすると、無意識に前髪をかきあげる。
「お若い奥さんを貰って良いわね! じゃあ、これお祝い代わりにあげるから。鎌倉野菜!」
 女性は金澤に野菜セットを押しつけてニコニコしている。
 香穂子はと言えば、“若い奥さん”と言われて、顔から火が出るほどに恥ずかしかった。
「ったく…。この野菜は有り難く貰っておくからな。じゃあ、また」
「またね」
 手を振られて見送られてもどうして良いのやら香穂子は解らず、ひたすら小さくなってしまっていた。
「先生、嬉しかったよ」
 香穂子は金澤の手を柔らかな力で握り締めると、そっと微笑んでみせた。金澤は何も言わなかったが、ただ笑ってくれた。
 金澤が連れていってくれたのは、昔ながらの洋食屋だった。レトロな雰囲気が香穂子には新鮮だ。
 席につくと金澤は迷いなく、スパゲティナポリタンを注文した。
「ここのナポリタンは最高だぞ。イタリアで本番のパスタを食べても、忘れられない味だったからな」
「だったら私も同じものにしますっ!」
 イタリアのパスタよりも美味しいナポリタンスパゲティだなんてどんな味なのだろうか、香穂子は楽しみでたまらなかった。
 ほどなくしてナポリタンがテーブルに運ばれてくる。
「俺のガキの頃にスパゲティっていったら、ナポリタンかミートソースぐらいだったからな。だから今でも美味いって思うな」
「じゃあ頂きます」
 香穂子はフォークにスパゲティを絡めとると、直ぐに口に運んでいく。
「美味しい! 凄く優しい美味しい味がする!」
「だろ? どんどん食えよ」
「はいっ!」
 味付けはシンプルだし、具材もソーセージ、ピーマンぐらいしか入っていない。それでも香穂子にとってはびっくりするぐらいに美味しいスパゲティだった。
「なかなかおうちでは再現出来ないぐらいに美味しい」
「美味いは良いがついてるぜ?」
「え?」
 金澤の指先が、香穂子の唇の端に触れる。そのままついていた食べ物を指で摘むと、それを口に入れてしまった。
「…せっ、先生っ!」
「紘人だろ。ほら早く食べろよ。伸びてしまうからな」
 あくまで冷静な金澤を見ていると悔しくて、恨めしくて、香穂子はわざと無視を決め込んでいた。

 ナポリタンでお腹をいっぱいにした後で、ふたりは手を繋いでアパートへと戻る。
 こうしているだけで、幸せが込み上げてきた。
「いつもこうしていられたら良いのに…」
 香穂子がポツリと呟くと、金澤は強く手を握り締めると、離れないようにとしっかりと繋いでくれた。
 金澤のアパートまでの間、香穂子は今までにはないほどの幸せを感じる。
いつめならこのように手を繋いで歩くことなど出来やしないから。
「済まないな。折角のゴールデンウィークに」
「充分楽しいですよ」
「来年はもっと良いゴールデンウィークを過ごそうな。堂々とふたりで出掛けよう」
「はい」
 香穂子は頷くと、金澤にそっと寄り添った。
 今年のゴールデンウィークもご機嫌だったが、来年はもっと素晴らしいと思いながら。





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