ふたりで並んで歩くのもどこかぎこちない。まだ、先生と生徒を卒業してからは、日が浅いから。 一緒に歩いていても微妙な距離を保ってしまう。 こうしてふたりで堂々といられるのはとても楽しいし、ドキドキする。 なのにまだぎこちない緊張は取れなかった。 「なあ、花見にでも行くか。横浜は桜が満開だからな。凄く綺麗だろう」 「そうですね! 桜を見に行きましょう!」 香穂子は春の陽射しによって透き通る桜の花びらを想像しながら、くすりと微笑んだ。 「ああ。すげぇ綺麗だろうな…。お前さんとこうして見るのは初めてだからな。学院の桜は幾度となく見たが本格的な花見は初めてだからな」 「そうですね」 先生と生徒という見えないバリアが消え去ったのはこの春。 恋を育むパートナーとして、ふたりはまさにスタートラインに立ったばかりなのだ。 だからこそ、今まで過ごせなかった時間を大切にしたいと思った。 「香穂子!」 手を差し延べられて、こころが甘く跳ね上がる。 「もうこそこそする必要はないんだ。手を繋ごう」 「はいっ!」 金澤の手を香穂子はギュッと握り締めると、ニッコリと小悪魔のように微笑む。 「もう離す気はないですから」 「覚悟してるよ」 「はい。しっかりと覚悟して下さいね」 金澤と手を繋いで往来を歩くことが出来るだけで香穂子は嬉しくてたまらなくて、春の陽射しよりも明るい笑顔を浮かべる。 春は、誰もが鈍色の衣を脱ぎ捨て、眩しいほどに明るく柔らかな色を纏う季節だ。 香穂子と金澤もまた、先生と生徒という灰色に見えなくはない関係から、ふわふわとしたパステルカラーの関係に変わったばかりだ。 まるで内気なティーンエイジャーのような関係が、今のところのふたり。季節が移ろぐ頃には少しは成長しているだろうか。 金澤のがっしりとした温かな手に包まれて、柔らかい陽射しのヴェールのなかを歩くのは、とても素敵だ。 「屋台とか出てないですかねー」 「なくても食い物はあるぞ」 「まさか…」 嫌な予感がする。 「そ、ネコ缶ならあるぞー。焼津のマグロを使ったグルメなあなたにピッタリって書いてあるぞ」 「い、良いです…。先生っ」 やはり予想通りのネコ缶。しかもネコの分際で焼津のマグロを食するとは。全く侮れない。 「なあ、香穂子、俺はお前さんのことをちゃんと名前で呼んでいるよな?」 「はい」 「だったら俺の“先生”も止めろ。俺はもうお前の先生じゃないんだから。だから、止めろ」 「…ど、どう呼べば」 先生以外で呼ぶなんて、考えもつかない。名前を呼んでしまうとドキドキし過ぎて、どうかしてしまうんじゃないかと、香穂子は思ってしまう。 手を繋いで、名前を呼んで。 恋人同士ならばよくやっていること。 だが、香穂子と金澤は、余りにもスローペースな期間が長過ぎたから、なかなか次の一歩に緊張してしまう。 「紘人って呼べないか? 金澤さんはダメだからな。金やんもダメだ」 「あ、あの、そ、その…、ひ、ひろ、…さん」 香穂子がしどろもどろに金澤の名前を呟くと、わざと意地悪に聞こえないふりをした。 「何だ? 香穂子、もう一度呼んでみろ」 「そ、そそその、恥ずかしいっていうか…、その何とも…。ねえ…」 香穂子が照れているのを面白がるようなまなざしを向けながら、金澤はわざと怒ったように口を開く。 「言えよ。紘人以外は返事をしない」 「えーっ!!」 それは正直言って困る。ちゃんと返事はして欲しい。 あの蕩けるようなうっとりとしたテノールで。 「ひ、紘人…さん…」 震える声で今すぐ消えてしまいそうな声で呟くと、金澤はムッとしたような表情をわざと香穂子に向けた。 「ダ、ダメ…?」 香穂子が許しを乞うように無意識に上目遣いをすると、いきなり視界が陰った。 「…え…?」 びっくりして目を大きく見開らいていると、いきなり唇をさり気ない甘さで塞がれてしまった。 触れるだけなのに、ほんのりと煙草の香りがする。 「三十点!」 薄く大人の男の笑みを浮かべられて、香穂子はマラソンを終えた直後のように激しく鼓動を刻んだ。 幸せなのに、ドキドキし過ぎて涙が滲んでしまう。 「…先生のばか」 「先生なんて言ったら、またキスだな」 「…煙草、また吸ったでしょ?」 香穂子が恨めしそうに睨み付けると、金澤は逆に罰の悪そうな表情をした。 「…一日一本にしてる…」 「ダメ! 喉に悪いじゃないですかっ!」 香穂子は眉を吊り上げて本気になって怒る。金澤の朗々とした豊かな歌声を聴きたかったから。 「お前さんに言われると弱いな…」 金澤は切ない笑みを浮かべると、香穂子の手を更に強く握り締めた。 「有り難うな、いつも。許してくれるか?」 「…桜に関する歌を歌ってくれたら、考えても良いですよ」 「…解った」 金澤は小さく頷くと、香穂子に眩しそうな笑みをくれた。 手を繋いだままで、金澤と公園に入ると、花見客が賑やかに集っている。 誰もが春の到来を喜んでいるかのようだった。 香穂子が好きな屋台もあり、とても美味しそうな匂いをさせている。 「たこ焼きとかイカ焼き、焼きそばも美味しそうですね!」 香穂子は金澤の手を引っ張ったままで、鼻をひくひくさせている。 「ネコも食べられるようなのを頼むな」 「ネコ缶あるじゃないですか?」 「ああ。こいつのためにな」 金澤はポケットからひょいとキジトラ柄の子猫を出した。 「ママに逢いたいってさ」 「にゃおんっ!」 猫はご機嫌に鳴き声を上げると、香穂子を見るなり声を上げる。 「カホコがお前さんに撫でて貰いたいってさ」 「同じ名前は何だか照れるから止めて下さいよー」 「いいじゃないか」 香穂子は拗ねるように言いながらも、照れて笑ってしまう。金澤に毎日名前を呼ばれているのは、ほんの少し恥ずかしくて、とても嬉しい事だ。 イカ焼きやたこ焼き、焼きそばといった、ある意味花見では定番の屋台の品物を買ったあとで、ふたりは桜が美しく見える場所に陣取った。 「さあ、ここで食べながら、桜を見ましょう!」 「うんにゃん」 ふたりと一匹は、花見でないとなかなか食べられないイカ焼きや焼きそばを楽しみながら、春の香りがする 桜の花を楽しむ。 猫のカホコはと言えば、金澤が盛って来たネコ缶を、楽しんで食べている。 「…何だか幸せですね…」 「そうだな。こうやって桜の花を楽しめるのは、お前さんのお陰なのかもしれないな…」 金澤は噛み締めるように言うと、“さくらさくら”を歌いだす。 近くにいる香穂子にしか聞こえない、艶やかなテノール。 聴くだけで、香穂子は切なくも甘い幸せを感じる。 まだまだ本調子ではないかもしれない。だが、以前に比べるとかなり声変わり出るようになってきた。 金澤の声に感動する余りに、香穂子はいつしか泣きそうになってしまう。 「香穂子…」 「何だか先生の声を聴けるだけで凄く嬉しくて…」 「ったく、泣くなよ」 金澤はしょうがないとばかりに笑うと、香穂子の髪を撫でた。 「…泣いてなんかないよ…」 「…香穂」 ギュッと金澤に抱き寄せられたあと、その肩に顔を埋める。膝の上には甘えるように猫のカホコが座った。 金澤は香穂子の背中を優しく撫でると、“さくらさくら”を歌ってくれる。 優しい桜の歌に、香穂子は癒されるように目を閉じた。 春の泡沫の桜時間は、香穂子と金澤のふたりの間にも、素晴らしき温もりを与えてくれた。 |