*君だけを見ている*


 恋なんて下らない。
 ずっとそう思ってきた。
 そんなことをする暇があるなら、一冊でも有意義な本を読め、ビジネスを進めることも出来るし、何よりも感情も常に安定していられる。
 本当に馬鹿らしい。
 なのに世の中には、“恋”に関するものが溢れ過ぎている。
 映画も、小説も、テレビドラマも何もかも。
 何が楽しい?
 燃え上がって、燃え尽きるだけで後には掌に何も残らない。
 こんなに無駄なものはこの世のなかにないとすら思っているのに。
 なのに、人はどうして恋をしたいなどと、下らないことを考え続けるのだろうか。
 あれ程無意味なものなどないのに。
 欲望? そんなものは肉体的な繋りだけだ。
 後腐れなく過ごすことが出来る相手を、戯れに探せば良いのだ。
 それだけだ。
 なのに。
 最近はそう思えなくなってしまっている。
 真っ直ぐと前しか見ない明るい瞳に出会ってしまったから。
 あの瞳にただひとり映して貰えるためなら、きっとどんなことでもするだろう。
 だが、努力をしようとする前に、どうしようもない壁が立ちはだかってしまう。
 あの瞳を見つめるようになってから、真っ直ぐ誰を見ているかを、気付いてしまったから。
 あの瞳の先にあるのは、金澤紘人。
 私の気の置けない先輩。
 ヴァイオリンなんて弾いたことなどなかったのに、ファータどもの仕業でいきなりコンクールに出場させられて、右も左も分からなかったと聞く。それを影になり日向になり支えたのが金澤さん。
 正直言って悔しい。
 彼女の相手が、よりによって金澤さんだったなんて。
 金澤さん以外の相手ならば、私はどんなことをしても彼女の瞳を自分に向けさせたのに。
 金澤さんは駄目だ。
 私には敵にすることが出来ない。
 いいや…。私にとっては唯一敵わない相手だからだ。
 ふたりは恋をしあっている。
 金澤さんは、私のように恋を知らないわけではない。
 金澤さんはイタリア時代に熱情的な恋をして、溺れる余りに総てを失った。
 大切な声すらも、総て失ってしまった。
 それ以来、恋に幻想を持てなくなり、金澤さんは恋をしなくなった。
 少なくとも今まではだ。
 私と同じように出会ってしまったのだ。
 あの真っ直ぐとした瞳に。
 明るく澄んだ純粋な瞳に。
 彼女には、打算だとかそのようなことは一切なくて、ただ相手のために尽くしてくれる少女。
 こんなにも負けん気が強くて、そして純粋なこころを持っているのは、彼女以外に私は知らない。
 最初は小生意気なイマドキの女の子だと思った。
 だがそのひたむきさを見ているうちに、彼女に酷く惹かれていった。今やこころの一番綺麗な場所に、彼女は住んでいる。
 金澤さんにとっては久方振りの、私にとっては初めてのといって良いほどの恋の相手なのだ。
 その彼女が夢中なのは、金澤紘人。
 私じゃない。
 もう少し早く出会いたかった…。


 休日の駅前通りはかなりの人手で、いつも閉口してしまう。
 ここを越えなければ、学院にたどり着くことなんて出来ない。
 私はしょうがないと思いながらも、溜め息を吐いた。
 不意に視界の向こうに、見慣れたふたりの姿が入ってくる。
 長い髪を無造作に括っている男と、ヴァイオリンを持っている少女。
 この組み合わせを見れば直ぐに分かる。
 金澤さんと日野君だ。
 ふたりは微妙な距離を取っているところから、デートではなさそうだ。
 だいたいふたりは、教師と生徒という関係性からか、いつもお互いに遠慮をした恋をしているように見える。
 ふたりは氷だと思う。
 本当はお互いに好きで好きでしょうがないはずなのに、互いのこころを冷たい氷で包み込んでいる。
 それを互いの情熱で、少しずつ溶かしているように見えた。
 きっとこころを覆わずにはいられなかった氷は、“卒業”という名の春の到来で、綺麗に溶けきってしまうだろう。
 気の長い話だ。
 だが裏返して見れば、それだけお互いに、大切に愛し合っているということなのだろう。
 ふたりの間にわざと空けられた微妙な距離は、ふたりの固い絆を象徴しているようにみえて、私はあの間に入り込みたくなる。
 だが、そんなことは出来ない。
 そんなことをしても、恋の女神は私には微笑んでくれないことぐらいは、私には充分に解っていたから。
 入れない絆。
 壊せない絆。
 いつもなら簡単に壊してしまえるのに、ふたりの絆だけは壊せない。
 不意に金澤さんが振り向き、ほんの一瞬、慌てたようなまなざしになった。
 それもそのはずだ。私は、ふたりがいる星奏学院の理事長だからだ。
 ふたりが手を繋いでいたとしても、決して、私は咎めなかっただろう。
 表向きに軽く注意をするぐらいだ。
 金澤さんは複雑な笑みを歪んだ唇に浮かべた。
「吉羅か。何だ、今日も休日出勤なのかよ」
「ええ。仕事が溜まっていましてね。平日だけだとこなせないんです」
「そうか。大変だな」
 金澤さんは「とても俺はそこまで勤勉ではいられないな」とのんびりと呟いた。
「こんにちは、吉羅理事長!」
 明るい温かな笑みとともに、日野君が元気よく挨拶をくれる。午后の陽射しよりも明るくて、私は目をすがめた。
「こんにちは。ヴァイオリンの調子はどうかね?」
「なんとか頑張ってます。さっき先生に聴いて頂いていたんですが、まあまあだと。こういう時は厳しいんですよね。金澤先生は」
 日野君は青空のように明るい声で言うと、屈託なく笑う。
 素直な笑顔は、金澤さんがそばにいるからということを、私は気付いていた。
「また理事長室にヴァイオリンを弾きに来てくれるかね?」
「はい、喜んで!」
 日野君の明るい返事が眩しい。
 だがその笑顔は決して私に向けられない。そう思うと、切なくてしょうがなかった。
「…さて、金澤さん。私は行きます」
「ああ」
「理事長、お仕事、頑張って下さいね」
 日野君の言葉に、こころが温かくなる。疲れが一気に溶けて行くのを感じた。
 私は「失礼」と、軽くふたりに会釈をすると、学院に向かう。
 私は振り返ってちらりとふたりを見つめた。
 彼女の笑顔は先ほどよりも明るくて柔らかな笑顔を浮かべている。
 もし、いつものように強引な手法で、彼女を金澤さんから奪えばどうなるだろうか。
 彼女は私にも同じように笑顔をくれるだろうか。
 いや…。そうじゃない。
 世界は彼女の目の前で崩れ落ちて、二度と笑わなくなるだろう。
 そんなことはしたくない。
 彼女から笑顔を奪うなんてことは、私には出来ない。
 奪えない程に愛しているなんて、こんなことは今までなかったかもしれない。
 彼女の笑顔を守るために、いつも一歩離れたところで見ていよう。
 君が幸せであれば、私はそれで構わない。
 君から幸せを奪うヤツは許さないから。


 数年後、一通の招待状が届いた。
 金澤紘人と日野香穂子の結婚式の招待状。
 懐かしくも切ない日々を思い出す。
 まだ君は私のこころの一番綺麗な場所に住んでいる。
 君は生涯それを知ることはないだろうが。
 私はしょっぱい気分を味わいながら、出席のところにまるをつけた。

 何時までも君のことを一歩後ろで見つめているから…。
 





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