*制服の日*


 春は昼寝をするのには最高の時期。
 春眠暁を覚えず。
 などという言葉があるぐらいなのだから、誰もが気持ちよく眠れる時間でもある。
 眩しいほどの日の光と、暑くもなく寒くもないベストコンディションが、うつらうつらを引き起こしてしまうのだ。
 新学年になり、金澤が主に教えている音楽科3年に、ふたりの生徒が加わる。
 そのなかのひとりは日野香穂子。密かにこころを通わせている生徒だ。
 明日からの新学年から、本格的に音楽の道に進んで行く小さく愛しいもののナビゲーションが出来ればと思っている。
 してやれることと言えば、灯台になって守ってやることぐらいしか、してやれないから。
 未だ柔らかいのに超えられない境界線を持つふたりには。
 音楽準備室で煙草をふかしながら、新学年のリストのなかにある名前を指先でなぞる。
 日野香穂子の名前を。
 その名前をなぞるだけで、キスをしたような錯覚に覚えるほどに官能的だ。
 明日からとても近くて遠くなる。
 お互いの恋心を、より深い場所で隠し通していかなければならないから。
 不意にドアがノックされる。
「金澤先生、日野です」
「開いている。入れよ」
 側に香穂子がいると思うだけで、微笑んでしまった。
「はい、失礼します」
 まるで音楽を奏でるように香穂子は呟くと、ゆっくりと音楽準備室に入ってきた。
「こんにちは…」
 いつも以上にはにかんだ口調だからか、とても初々しく聞こえる。
 金澤は振り返った瞬間、言葉を無くしてしまった。
 そこに音楽の天使が現れたのかと思った。
 クラシカルで清楚な音楽科の制服を身に纏った香穂子は、とても愛らしい。
 普通科の時よりも、更に清らかさは増したように思える。
 香穂子をじっと見つめていると、本当に音楽の妖精だと思わずにはいられなかった。
「…先生に一番最初に見せたかったんです。音楽科の制服を…」
 香穂子は着心地が悪いのか、何度もぎこちない動きを繰り返している。それがとても可愛いくて、抱き締めたくなってしまう。
 だが抱き締めてやることは出来ない。
 この空間では自分は教師で香穂子は生徒なのだから。この強固なラインをどうしても壊すことは出来ない。
 険しい顔をして黙り込んでいると、香穂子が切なそうに唇を強く噛み締めた。
「…似合わないですか?」
 不安げに揺れるまなざしに、金澤は衝動的に抱き締めたくなった。だがそれを何とか押し止どめると、僅かに口角を上げて呟く。
「似合ってる」
「嘘でしょ」
「本当に似合っていると思う」
 金澤は噛み締めるように呟くと、遠い日に置き去りにしてしまっていた音楽科時代の思い出が浮かび上がってきた。
 もし同じ制服を身に纏っていたら、きっと一目で恋に落ちていただろう。
 金澤はこころから思うと、香穂子の頬に触れた。
「本当に似合ってる。普通科の制服が似合っていなかったわけじゃないが、音楽科の制服のほうが、俺はお前らしいと思うけれどな」
「先生…」
 金澤が目を細めて香穂子を見つめると、幼さが遺る頬はほんのりと赤く染まった。
「有り難うございます」
 香穂子が恥ずかしそうにしながらも、誇らしげに背筋を伸ばしてこちらを見ていることが、何よりも嬉しかった。
「…早速、その制服で一曲演奏をしてくれないか?」
「はい、その前に先生、煙草は絶対にダメですよ」
 香穂子はまるで生活指導の教師のように、金澤を思い切り睨み付けてきた。
「解った」
 金澤はわざと溜め息を吐いたが、そのまなざしには笑みを滲ませていた。
 香穂子は気がついているだろうか。かなり煙草の本数が減っていることを。
 それだけではなく、少しずつ声が良くなっていることを。
「じゃあ頼むぜ。とっておきのものをな」
「はい」
 香穂子は柔らかい春の陽射しのような微笑みを浮かべたあとで、凛とした表情へと変わる。
 ヴァイオリニストらしい顔になってきている。
 音楽科で過ごすこの一年間を、金澤は決して無駄には過ごさせない覚悟をしている。
 音楽を志すものには若さは貴重で、何よりも変えがたい特権なのだから。
 ひとよりも遅れて音楽を志した香穂子のハンディを、自分の力で埋められるところまで、出来る限り埋めてやりたかった。
 香穂子が温かな音色で、オペラ「フィガロの結婚」の「恋とはどんなものかしら」を演奏し始めた。
 明るい曲調は、清々しい恋を思い起こさせる。
 恋なんてドロドロとした余り良いものじゃないと言うのが、今までのイメージだった。
 もう二度とこんなにも面倒臭くて消耗するものに振り回されたくはなかったのに、こうして振り回されたくなるのは、やはり新しい恋が明るくかけがえのないものだったからだろう。
 金澤は香穂子のヴァイオリンの音を聴きながら、静かに目を閉じていた。
 こんなにも明るく優しい音楽は、世界中探しても日野香穂子しか奏でることは出来ないだろうと思う。
 こころの奥までじんわりと温かくなれる音楽なんて、なかなか探しても見つからないだろうから。
 夢中になって聴いていると、香穂子の演奏は直ぐに終わってしまった。
「日野、もう一曲構わないか?」
「先生、演奏料は高いですよ」
「出世払いにしておいてくれや」
 金澤はくつくつと喉を鳴らして笑うと、香穂子はしょうがないとばかりに優しい溜め息を吐いた。
「しょうがないですね。一曲だけですよ」
「ああ」
 金澤は再び目を閉じた。
 香穂子が奏でる音は、煙草なんかよりも余程精神安定剤になる。
 いつも香穂子が側にいれば、煙草を口にするなんてことはなくなるだろう。
 今度の曲はロマンティックに「魅惑のワルツ」だ。
 くるくると綺麗な姫がワルツを踊るイメージがある。
 思わず鼻歌を歌わずにはいられなくなってしまった。
 いつの間にか、香穂子が演奏を取りやめてしまっていて、じっと金澤だけを見つめて来る。
「先生…、前よりも更に素敵な声になっている…」
 香穂子が惚けたように見つめるものだから、金澤も驚かずにはいられない。
「おいっ! 日野っ!」
 ここが音楽準備室であることを香穂子はすっかり忘れてしまっているかのように、いきなり抱き付いてきた。
 その瞳に熱い涙を滲ませながら、香穂子はしっかりと金澤に抱き付いている。
「先生の声がどんどん良くなっているのが嬉しいです」
「…お前…、ここがどこか解って…」
 金澤は風前の灯火である理性をなんとか掻き集めて、教師らしく香穂子を諭すように言う。
 だがそれは全く効果はないようで、無粋なことは言うなとばかりに、香穂子が余計に強く抱き付いてきた。
「嬉しいんです。だから、今だけ…」
 香穂子の発する甘い香りや声が、金澤の感情を刺激する。
 ここで突き放すわけにはいかない。金澤もひとりの男なのだから。
「…解った…」
 金澤は覚悟を決めて香穂子の背中に腕を回すと、その背中を撫で付けた。
「…先生の復活の独唱は、私に演奏させて下さいね」
「ああ。分かってる」
 こんなに可愛いことをされてしまうと、愛しさに歯止めがかからなくなってしまう。
「今は春休みで…、まだ、学校は始まっていないからな…」
「はい…」
 ためらいがちに、香穂子の唇に自分のものを重ねる。
 触れるだけのキス。
 今はそれしかあげることが出来ないから。
 金澤は香穂子から離れると、優しい笑みを向けた。
「…いつか、頼んだぜ…」





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