金澤編
バレンタインが近付くと、女の子はそわそわわくわく。 家庭科の授業も、チョコレートケーキを作ったり、学校もバレンタインに協力的だ。 この瞬間だけは、香穂子は普通科にいて良かったと思う。 音楽科には、音楽通論を始めとする音楽関係の授業が沢山あるからか、家庭科はなく、香穂子たち普 通科生徒とは違うカリキュラムになっている。 「さてと、そろそろ授業の準備に行かなくっちゃ」 でっぷりとしたいかにも料理上手そうな家庭科教師が、いつもよりもかなり早く重い腰を上げた。 ここ最近はいつもそうだ。 いつもは金澤と同じようにギリギリにならなければ立ち上がらない家庭科教師だが、最近はかなり早くに教室へと向かう。 「先生、最近、家庭科準備室に早めに行かれますね」 「この時期はね。二年生の女子は、最後の調理実習に、バレンタインのチョコレートケーキを作るんですよ。彼女たちは毎年、気合い十分ですから、それに応えてあげないと。これも『チョコレートケーキロマンス』のせいかしらね」 「『チョコレートケーキロマンス』?」 聞き慣れない言葉に、金澤は顔をしかめた。どこの学校にもあるような、陳腐な恋愛伝説なのだろう。 「音楽科に『ヴァイオリンロマンス』があるように、普通科にも同じようなロマンスはあるんですよ。調理実習で作ったチョコレートケーキを渡すと、幸せな恋が叶えられると…。みんな年頃ですからね…」 「俺は普通科とはほとんど接点がないですからね。知りませんでしたよ」 「じゃあ今日は先生が接点のある、数少ない生徒のうちのひとりにチョコレートケーキを教えて来ますよ。5、6時間目は、日野さんのクラスなんですよ」 のんびりと話す家庭科教師とは裏腹に、金澤の心臓はドキリと大きく跳ね上がった。 日野香穂子。 生徒以上に想いながらも、その境界線を超えることが出来ない女。 名前を聞くだけで、こころの奥がおかしな気分になってしまう。 「では金澤先生」 「あ、いってらっしゃい」 家庭科教師のでっぷりとした背中を見送った後、金澤は大きな溜め息を吐いた。 何故かムシャクシャする。 ひょっとして日野は、誰かにチョコレートケーキをプレゼントしたいと思っているのだろうか。 自分以外の男に、チョコレートケーキをプレゼントするなど、そんなことは認められないとすら金澤は思う。 愛しているのに、それを言葉で言ってやることが出来ない。 教師と生徒という、超えられない柔らかな境界線が、金澤を苦しめていた。 他の男にチョコレートケーキなんてやるなと、堂々と宣言出来たら良かったのに、金澤にはそんな資格は無い。 大切な言葉を告げられない立場にいる今は、言葉にすることなんて出来なかった。 電話も、メールも、デートも…。ないないづくしな自分達の恋。 この恋が、いつか光り輝く場所に躍出ることがあるのだろうか。 大人なはずなのに、そんな不安におののいている。 金澤は溜め息をもう一度深く吐くと、煙草に手を伸ばした。 最近、あの日の光のような生徒のお蔭で、煙草の本数は随分と減った。 だが時折、こうして拗ねた子供のように、タバコを吸ってしまいたくなる。 「嫉妬なんて…俺らしくないよな…」 自分の変わりように、金澤は思わず苦笑いを浮かべていた。 「金澤先生、何か?」 金澤の独り言を聞いていた教師が、思わず声を掛けてくる。 「いいえ、何でもないですよ」 「だったら良いですけれどね」 金澤はフッと笑うと、天井を眺めた。 あの日のように、いつか愛想を尽かされてしまう日が来てしまうのだろうか。 もちろん紫煙が漂う天井に答などあるわけもない。 金澤は髪を面倒くさげにかきあげると、溜め息を吐いた。 また、先生と教師などという見えないバリアを張られてしまうのだろうか。 香穂子は切なくこころが締め付けられるのを感じながら、チョコレートケーキの生地を練り込んでいた。 ハートの形に流し込むときに、こころのなかで呪文を唱える。 どうか。どうか。 金澤先生が、チョコレートが溶けてしまうほどの恋心に、気付いてくれますように。 香穂子は泣きそうになりながら、生地を練り上げていく。 「なんか香穂さあ、生地に恨みでもあるかのように練ってるじゃん。力を入れ過ぎだよーっ!」 ころころと愉快な音を鳴らしながら、天羽は笑い転げている。 「お、美味しくないなるように、練り込んでるだけだよー」 「なあんか、おまじないでもしているみたいだなあ。恋のおまじない? 香穂の真っ直ぐな想いに気付かないとは、相当の朴念仁だねえ!」 天羽はわざとアイコンタクトをしてくるのは、相手が誰か解っているからだ。 「さあ良い感じだから、流し込もう!」 ハートの形に入れて、オーブンで焼いている間に、生クリームを作る。流石に生地を練り過ぎたのか、生クリームは天羽が一生懸命泡立てくれた。 暫くは恋話に花を咲かせた後、いよいよ仕上げにかかる。 「ほっこりと綺麗に焼けたよー!」 ガスオーブンから焼上がったケーキを取り出すと、香穂子がしっかりと練った生地は、どこのグループよりもふっくらとしていた。 「香穂! 凄いよー! ほら、生クリームで絵を描こうよ」 天羽がつんつんと肩をつついてくるものだから、香穂子も楽しくなって笑った。 ハート型の自分のケーキを前に、香穂子は気合いを入れて深呼吸をする。 教師と生徒だから…。 境界線を超えることなんて出来ない。 香穂子を傷つけまいとする金澤の配慮は嬉しい。 だがそれが時折、重苦しいこともある。 香穂子は、切ない気分を吹き飛ばすように、ケーキに生クリームを近付けた。 描くのは決めている。金澤の好きな猫だ。 眉間に皺を寄せて、香穂子は猫の絵を一生懸命描く。 「可愛いじゃん! これだったら、朴念仁の誰かさんも喜んでくれるかもね〜」 香穂子の思い人を知っている阿望は、にんまりとからかうように笑った。 「もう〜」 香穂子は、チョコレートケーキを覗き込みながら、祈る。 どうか。どうか。 金澤が気に入ってくれますように。 放課後、香穂子はケーキを持って、急いで音楽科の、音楽準備室へと向かう。 走るのも苦しくないぐらいに、こころも息も弾んだ。 重厚なドアの前までたどり着くと、香穂子は深呼吸をする。このドアの向こうにいるのは、まさしく大好きなひとだ。 背筋を伸ばすと、いつもよりもよそ行きの気分でドアをノックした。 「金澤先生、日野です」 「ああ。開いてるから入れ」 「はい」 香穂子がそっと中に入ると、金澤は相変わらず気怠そうに煙草を吸っている。 「先生、また、煙草ですか。止めないと喉に悪いですよ」 香穂子は眉をあからさまに上げると、金澤の唇から煙草を奪った。 「お、おいっ! 何をするんだよっ」 「煙草は喉に悪いです。先生は声楽家なんだから。その代わりに、これを上げます」 香穂子はほんのりと頬を赤らめると、ラッピングをしたケーキを手渡した。 ケーキを見るなり、金澤は一瞬、驚いたように目を丸くする。 「…ヴァレンタインのチョコレート・ケーキか…」 「…先生、甘いものが嫌いかもしれないけれど」 「いいや、貰おう」 金澤は、優しい甘い光を瞳を浮かべると、丁寧にラッピングを解いた。 「お、猫か…」 「先生、好きでしょ?」 「ああ。有り難うな。勿体ないが、くずしちまうぞ」 「どうぞ」 金澤は、「残念だ」と呟きながら、チョコレート・ケーキを千切ると、一切れを口に放り込む。 本当に美味しいと思って貰えるだろうか。 香穂子はドキドキする余りに、何度も浅い息をする。 「美味いぞ!」 金澤がご機嫌そうに微笑むと、香穂子にそっと耳打ちをしてくる。 「----来年以降に…ちゃんとお返しをするからな」 「はい…」 教師と生徒----- 自分たちの間には、まだまだ柔らかく凜とした境界線が横たわっている。 その境界線を少しずつ少しずつ薄くしていこう。 自分たちの甘い情熱で。 香穂子も金澤も、自分たちらしく、ゆっくりと歩いて行ければよいと思っていた---- |