*ホワイトデイ協奏曲*

金澤編


 ホワイトデーだなんて、バレンタインデーに比べるとあまり重要ではないと思っていた。
 だが、いざ、ホワイトデーできちんと返さなければならない立場に立たされたら、重要なイベントのように思えてくる。
 それは、恋をする相手の素晴らしい笑顔を見てみたいから。
 それだけのために、色々と考えてしまう。それがまた、ドキドキしたり、甘い気分になったりして楽しかったりもする。

 恋仲になった最初のバレンタインデーに、卒業するまではホワイトデーのお返しはしないと、宣言をした。
 本当は返したくて返したくてたまらなかった。
 だが。
 ふたりは教師と生徒だったから。その柔らかくて硬質に輝く境界線を、越えることを敢えてしなかった。
 何よりも香穂子を傷つけまいと思っていたから。自分が修羅場を潜るならば良い。だが、それで香穂子の 将来や時間を何よりも壊したくはなかった。
「…俺も随分と、保守的だな…」
 苦笑いを浮かべてひとりごちながら、金澤は煙草を口に押し込んだ。
 誰かを傷つけまいと、自分の感情を抑えたのは、生まれて初めてだった。
 それだけ恋をした相手ということだろうか。
 待ちに待った卒業。
 香穂子よりも誰よりも、待っていたのは自分だったから。
 初めてのホワイトデー。
 だからこそ最高のものを用意してあげたい。
 お返しは何が良いかと考えながら、元町のメインストリートを歩く。
 手痛い恋を失ってから、女性のために何かをするとかしなかったし、考えられなかった。
 ふと目に止まった、ジュエリーショップのショーウィンドウ。
 シルバーのペンダントが、凛と輝いているのが見えた。
 ペンダントは、まるで香穂子が奏でる音楽のように、凛とした美しさと愛らしさが湛えられている。
 金澤はジュエリーショップのなかに足を踏み入れると、店員を掴まえる。
「すみません、ショーウィンドウにあるペンダントを下さい」
 迷うなんて文字は、金澤にはなかった。
 香穂子の鎖骨から胸元にかけてを彩るペンダントを想像するだけで、呼吸がおかしくなってしまった。
 きっと、高校生時代に見られなかった色気が見せてくれるだろう。
 綺麗に違いない。
「お客様、こちらには名前を刻印することが出来るんですよ?」
 刻印。
 それは何よりもの愛の証のように思える。
 プラチナのプレートに刻まれる言葉は、愛の籠った呪文のようにも見えた。
「お願いします」
「何を彫りますか?」
 考えあぐねることなんて何もない。
 刻む言葉は決まっている月並みなものだから。
「TO KAHOKO WITH LOVE FROM H と」
「畏まりました」
 店員がニッコリと笑ってペンダントを持って行くと、脱力の余りに溜め息が出た。
 こんなにも緊張していたのだと、今更ながらに思わずにはいられない。
 たかがホワイトデーのプレゼントを選ぶだけ。だが、されどだ。
 二年分の愛を込めて贈るプレゼントなのだ。
 この二年間は様々なお祝いごとやイベントをスルーしてきた。
 コンクール優勝のお祝い、バースデー、ホワイトデー。
 香穂子は学生なりに、イベントのお祝いをしてくれたが、金澤にはそれが出来なかった。
 教師と生徒という、どうしようもない柔らかな境界線に拒まれていた。
 だがそれも今はないのだから。
 たっぷりとお祝いをしてやりたい。
 恋が始まった期間中の。
「お待たせ致しました。こちらが品物でございます」
 刻印されたメッセージを見せてくれる。きらきら輝いた言葉に、こころがキュッと締め付けられる。
 これではまるで中学生のようだ。
 全くどうかしていると思ってしまう。
「包んで参ります。お待ち下さいませ」
「ああ」
 プレゼントというのは麻薬だ。
 特に愛するものへは。こんなにドキドキして、緊張して、嬉しいだなんて思ってもみなかった。
 三十路にもなって…。なんて自嘲ぎみに呟いてみても、この初々しい過ぎる恋心を止めるなんて出来なかった。
「品物でございます」
「有り難う」
 会計を済ませて、ジュエリーショップを出る頃には、すっかり舞い上がってしまっていた。
 恋をようやく進められる。
 その喜びが全身にエネルギーを与えてくれた。
 一生に一度の恋。
 今はそう思える。
 過去の手痛い恋も、この恋をするための過程に過ぎないと思えるようになった。
 今はもう優しくて遠い思い出だ。
 金澤は、手のひらにしっかりと収まったプレゼントボックスを軽く握り締めると、幸せな気分で街を歩き出した。

 ホワイトデーが初めてのデートというのも妙に緊張する。
 しかも港が見渡せる、春の陽射しが優しい公園。
 ここが自分たちらしいスタートラインのような気がした。
 約束の場所で佇んでいると、一気に春の香りが鼻孔をくすぐる。
「金澤先生!」
 明るい声で手を振る香穂子が、春の陽射しのスポットライトで輝いて見えた。
 綺麗だ。
 まるで汚れの知らない春の妖精のように見える。
 心臓のビートが高まり、まだ青い学生のような気分になってしまった。
 私服の香穂子は、ぐんと大人びて美しく見える。
 本当に綺麗過ぎて、眩し過ぎて、思わず目をすがめた。
 春色の花柄のプリーツスカート、薄いピンクのブラウスに、柔らかなピンクがとても愛らしいニット。足元はを年頃らしいローヒールのパンプス。
 一気に時間を飛び越えたように見えた。
「お待たせしました!」
 息を弾ませている姿が可愛くて、思わず目を細めて頬を撫でた。
 香穂子の表情が、いつもにまして華やいだ色香を滲ませている。
「ちょっと散歩して、寝転がるか?」
「ホント! 気持ち良さそう! 港も周りもみんなきらきらしているから、最高ですよ寝転がるのは!」
「そうだな」
 プレゼントことを思い出し、緊張が高まってきた。
 喉がからから渇く。
 香穂子は頬を染めながら、ねだるような視線を金澤に向けて来た。
「…先生、腕組んでも良いですか…?」
 声が震えている。
 その様子が可愛くて思わず抱き締めそうになった。
 ずっと我慢をさせていたのだから、もう思い切りさせてやりたいし、自分もしたい。
「手を繋ごうか」
「はい」
 震える小さな手をしっかりと包み込む。
 こんなに小さかったのだと、今更ながらに思ってしまう。
 暫くは、スキンシップを楽しみ、何にもないのにただ歩いた。
 手を繋いで歩いているだけなのに、とても幸せを感じる。
 ようやく芝生の上に腰を下ろすと、金澤は一度大きく深呼吸をした。
 全くガキじゃあるまいし、こんなに緊張するなんてどうかしている。
 金澤は香穂子に、さり気なくプレゼントを差し出した。
「ほら、二年分のホワイトデーやら諸々だ」
 照れくさくて、香穂子をまともに見ることが出来ない。
「有り難うございます!」
 香穂子の声が明らかに弾み、一秒も置かずにプレゼントの包みをといている。
 それがまた金澤のこころを潤ませた。
「ペンダント…っ!」
「プレート、見てくれ…」
「はい…」
 香穂子はしっかりと頷いてプレートを見た途端、瞳を潤ませて指先を震わせた。
「…有り難う…、先生…」
 ようやく日の目を見られた恋。それが嬉しくてたまらないのか、香穂子は声を詰まらせた。
 このまま背中から抱き締めたい。
「…ペンダント…つけてやろうか? 香穂子…」
 香穂子は感極まったように瞳に涙をいっぱいに溜めると、項を震わせながらただ頷く。
 金澤は香穂子からペンダントを渡されると、髪をかき上げて、項を露出させた。
 なんて綺麗な肌なのかと思う。
 金澤はキスしたい衝動を抑えながら、香穂子にペンダントをかけてやった。
「掛かったぞ」
「有り難う、先生…」
「もう、先生じゃないだろ? 紘人だ」
「紘人さん…」
 震える声で香穂子が名前を呼んでくれた瞬間、金澤は唇を塞いだ。
 ふたりの恋は始まったばかり。
 劇的な春です。





Top