合宿での総仕上げのアンサンブルコンサートを終えた後、香穂子は軽くふらふらとした。 昨日の夜、風呂上がりに庭園に出たからかもしれない。 寒気がして頭がぼんやりとしてしまう。 どうやら風邪を引いてしまったようだ。 だがもうすぐ帰ることが出来るし、電車の中では眠っていけば良い。 香穂子はそれを気力に頑張ることにした。 香穂子がヴァイオリンを持ったままゆっくりと腰を下ろしたのを、吉羅に見られていた。 吉羅は眉を寄せると怪訝そうに見つめてくる。 「日野君、具合が良くないんではないかね?」 「大丈夫です…。後は横浜に帰るだけですから…」 吉羅に向かって、香穂子はごまかすように曖昧に笑った。 「大丈夫そうには、私には見えないけれどね…」 「本当に大丈夫なんです」 香穂子が大丈夫だと力強く言っても、吉羅はまだ厳しいまなざしを向けて来る。 「そうは見えないがね」 吉羅はサッと香穂子の額に手を宛る。次の瞬間、かなり恐ろしい表情になった。 「日野君、熱があるじゃないか!?」 吉羅が言葉を荒げると、香穂子は思わず躰を小さく縮こませた。 びくりとして、まるで小動物のようにおどおどとしてしまっていた。 「…吉羅よ…、そんな声で怒鳴ったら、日野がびっくりするだろうが」 金澤が窘めるように言うのは当然なのだろう。 吉羅はほんの少しだけ恐縮しているようだった。 「全く…。どうして体調が余り良くないことを隠していたのかね!?」 吉羅は呆れ返るとばかりに大きな溜め息を吐いた。 「…練習をして…、更に上手くなりたかったんです。かけがえのないヴァイオリンですから…」 香穂子はかなりしょんぼりとしながら、切ない気分で吉羅を見上げた。 ステージは何処だって構わない。 ただヴァイオリンを沢山弾きたい。 その純粋な気持ちだけだった。 「…ヴァイオリンを弾いているのが嬉しくて、幸せなんです」 香穂子は素直にヴァイオリンを奏でられれば、それだけで幸せだった。 吉羅は更に溜め息を吐いた後で、香穂子をいきなり抱き上げた。 「…えっ…!?」 「日野君は私の車で送ります。電車よりもまだそのほうが良いでしょう」 「…電車で帰ることは出来ますから…」 「強がりをいうのはやめなさい」 吉羅は香穂子の瞳をじっと見つめる。 香穂子は頭が熱くてぼんやりとしてしまう。 それが吉羅への恋情によるものなのか、全く関係のないものなのかが、香穂子にはサッパリ分からなかった。 「桐也、お前は電車で帰りなさい。日野君のチケットを使うとよい。日野君は私が責任を持って連れて帰りますから」 吉羅は宣言すると、香穂子を抱き上げたままで駐車場へと向かった。 吉羅に車の助手席に乗せられる。 車のシートに躰を預けると、香穂子はホッとした。 「少し待っていなさい。風邪薬と君の荷物を持ってくる」 「はい」 香穂子がぼんやりとしている間、吉羅はテキパキと動いてくれる。それは嬉しいが、何だか胸が痛くもあった。 吉羅は香穂子の荷物を持ってきてくれ、それをトランクに入れてくれた。 「日野君、風邪薬とミネラルウォーターだ」 「…有り難うございます…」 吉羅からミネラルウォーターを受け取り、それを飲む。 喉を潤すことが出来て、少しばかりホッとした。 「シートベルトは緩めで構わないから、そのまま眠っていなさい」 「はい…」 折角、吉羅と一緒にドライブがてら帰るのに、こうして眠ってばかりいるのは嫌だ。 「…目を閉じなさい。起こしてあげるから…」 「はい…」 香穂子は深く目を閉じると、安堵感が広がってきた。 夜の高速を飛ばしてここまで駆け付けてくれたうえに、こうして送ってくれる。 香穂子は、吉羅のさり気ない優しさに、泣きそうになるぐらいに嬉しかった。 暫くじっとしていると気分は幾分かましになる。 吉羅が慎重に運転してくれていることもあり、酔うこともなく、かなり楽になった。 暫く走った後、吉羅が声を掛けてくれる。 「日野君、起きているかね?」 「…はい…」 「少し、休憩をしようか」 「有り難うございます。嬉しいです」 香穂子がゆっくり目を開けると、既にあたりはかなり暗くなっていた。 車はサービスエリアのパーキングスペースに停車する。 「深呼吸をすると良いだろう」 「はい」 「飲み物は何か飲みたいものがあるかね?」 「冷たいものが飲みたいです」 「フレッシュジュースでも飲んで、後はスポーツドリンクでも飲もうか」 「はい…」 香穂子は吉羅に微笑んだ後、車を降りた。 すると吉羅がしっかりと手を握り締めてくれる。 その力強さが嬉しかった。 「…有り難うございます…」 吉羅と手を繋げたことが、香穂子には嬉しくてしょうがない。 こうして手を繋いでいると、幸せで、守られているような気分になった。 昨日見た、吉羅にお姫様抱っこをされてベッドまで運ばれる夢。 香穂子はそれがリアルなものに繋がるのではないかと思った。 カフェレストランに入り、ふたりは腰を下ろす。 「日野君、何か食べたいものはあるかね?」 「…今は無いです…」 「そうか…。だったら、早目に出て横浜に向かおうか」 「はい…」 香穂子は吉羅に頷くと、運ばれてきたジュースを口に含んだ。 甘い誘惑ににっこりとしながらも、まだまだ気分の悪さは治っていないと思った。 吉羅をちらりと見る。 その優しさを肌で感じながら、もう“好き”だという気持ちは止められないと思った。 香穂子は吉羅から漂う大人の男の色気を感じながら、早くこの雰囲気に釣り合えるようになったら良いのにと思わずにはいられなかった。 吉羅と手を繋いで、パーキングまで向かう。 ここには誰も知り合いなんていない。 ほんの短い間だが、吉羅と一緒に恋人同士のようにいられる。 それが香穂子には幸せなことだった。 車に乗り込むと、結ばれた手は離れてしまう。それが胸に突くような痛みを覚えた。 「さてと、これから横浜に向かおうか」 「…はい…」 吉羅がハンドルを握り、静かに車は横浜に向かって出た。 どれぐらい眠っていただろうか。 香穂子が目をゆっくりと開けると、標識には“横浜”と書かれていた。 「間も無く横浜だ。気分は如何かね?」 「あ、大丈夫です…。随分と楽になりました」 本当に不思議なぐらいに躰が楽になっている。 薬がしっかりと効いてきたのだろう。 「横浜の夜景が見えてきましたね。やはり綺麗です」 「少しドライブしてから帰るかね? お嬢さん」 「嬉しいです」 もう少しで良いから、吉羅と一緒にいたい。 美しい夜景を大好きなひとと見たかった。 みなとみらいを車で見ながらうっとりとした気分になる。 「日野君、おなかは空かないか?」 「そういえば少しだけ空きました」 「じゃあ、腹拵えをしてから帰ろう。余りヘビーなものはダメだよ」 「はい」 結局、吉羅は中華粥の専門店に連れていってくれ、香穂子はそこで軽く中華粥を食べた。 まるでデートのようで、香穂子は嬉しかった。 いつしかドライブデートのようになった、合宿帰りもこれでお終いだ。 吉羅が家まで送ってくれる。 もう何度も送って貰っているから、吉羅はスムーズに家にたどり着いた。 「では日野君、くれぐれも身体には気をつけて頑張りたまえ」 「有り難うございます」 車を見送りながら、香穂子はお辞儀をする。 もっともっと好きになった…。 その甘酸っぱい想いを抱き締めていた。 |