一月前、香穂子は吉羅の子どもを出産した。 元気の良い綺麗な赤ちゃんで、香穂子の毎日の子育てに張り合いを持たせている。 愛する男性の子供を生むというのは、なんて素晴らしいことなのだろうかと、実感せずにはいられなかった。 忙しいにもかかわらず、吉羅はかなり子育てには協力的で、毎日、少しでも手伝おうとしてくれている。 香穂子にはそれが有り難くてしょうがなかった。 今日も息子をお風呂に入れてくれた上、香穂子がお風呂に入っている間、ずっと見てくれていた。 バスルームから出て、香穂子が子供部屋に入ると、吉羅の甘くて低い魅力的な声が聞こえた。 こころが幸せになってとろとろになるほどに甘い声。 吉羅が歌っているのは、“ジョスランの子守歌”だ。 香穂子も歌って貰ったことがある子守歌。 吉羅がそれを息子に聴かせてくれているのが、嬉しかった。 優しい父親の子守歌。 子供を優しくそして力強く守る子守歌だ。 母親の子守歌が、柔らかな優しいヴェールで子供を包み込むならば、父親のそれは、見えない鉄壁の壁で、如何なるものから子供を守っているように思えた。 香穂子は優しい気分に浸りながら、吉羅の子守歌を聴いている。 香穂子の気配に気付いたのか、吉羅がゆっくりと振り返った。 「聴いていたのか?」 「はい。懐かしいなあって思っていました。暁彦さんの“ジョスランの子守歌”は、私にとっては特別な子守歌ですから」 香穂子は幸せな気分で微笑むと、ベッドの中に眠る息子を見つめた。 「この子は幸せだなって思います。だってこんなにも愛されていますから」 「そうだね。お母さんにもお父さんにも」 ふたりでベッドを覗き込むと、すやすやと眠り始めた。 「眠っちゃいましたね。暁彦さんの子守歌がお気に入りみたいです」 香穂子は、優しい気分で囁きながら、初めて子守歌を聴いたことを思い出していた。 あれはアンサンブルメンバーで行った合宿。 今や懐かしい思い出だ。 入浴した後で庭園に行くと、思いがけずに吉羅と出くわした。 月や星を見てから眠ろうと思っていたのだ。 吉羅はスーツ姿のままで、車を飛ばしてここまでやってきてくれたのだ。 それが嬉しかった。 「君達の進捗具合が気になってね。アンサンブルの調子は如何かね?」 「有り難うございます。理事長に心配して頂いて嬉しいです。様々な方から指導して頂いてかなり有意義なものになっています。有り難うございます」 香穂子は本当に嬉しくて涙が出そうになる。 「それは良かった。しかし、深夜まで起きているのは、関心しないね」 吉羅は相変わらず厳しい口調で言う。 香穂子はそれを心配してくれているからだと感じ、逆に有り難いと思った。 「理事長こそ、無理をされたんじゃありませんか?」 「いいや。夜の高速を飛ばせば数時間で到着するからね」 吉羅は心配させないようにと、いつものようにビジネスライクに言う。その気遣いも嬉しかった。 「君こそ今日は練習三昧でくたくたでないのかね?」 「だけど大丈夫です。心地好い疲れですから…。それに…」 「それに?」 吉羅に逢うことで疲れが吹き飛んだと、香穂子は心の中で呟いた。 ふたりはソファに背中合わせで座る。 流石に吉羅も疲れ果てているようだった。 「お疲れなんですね」 「シャワーを浴びたら直ぐに眠るよ。君はどうなのかね?」 「子守歌を聴いたら、眠れるかもしれません…」 「歌って欲しいのかね…?」 「…はい」 香穂子が素直に言うと、吉羅がフッと優しく微笑む。 その笑みが温かい。 「解った。こんな歌を歌うのは久し振りなんだがね…。幼い頃に母がよく歌ってくれた…」 吉羅は懐かしそうに呟いた後、柔らかな声で歌い始めた。 本当に甘くてなんて美声なのだろうかと思う。 香穂子の魂の奥底に語り掛けてくる。 香穂子はその柔らかな調べにうっとしとしながら、余りにもの心地良さに目を閉じた。 ここで眠ってはならないと思いながらも、そのまま眠ってしまった。 翌朝、ベッドに寝かされていたので、吉羅にそこまで運ばれていたかと思い恐縮した。 ただあんなにも素敵な子守歌を聴きながら眠ったので、見た夢は素晴らしかった。 素晴らしく綺麗な洋館に滞在し、吉羅に抱き上げられて、そのまま階段を上がる夢だ。その後、吉羅にキスをされるという、ロマンス小説のような展開だった。 なんて素敵な夢を見たのだろうか。 そんな幸せな気分に、ほんのひとときでも浸ることが出来たからか、香穂子はその後も頑張ることが出来たのだ。 吉羅との夢のような時間を過ごすことが出来たのだと、香穂子は幸せな気分だった。 それがリアルだということが解ったのは、それから暫くしてからだったが。 吉羅はといえば。 香穂子がすやすやと眠ってしまい、思わずその寝顔を見つめた。 あどけなさの中に、確実に大人の女性の艶やかさを帯びている。 いつまで見ていても飽きないと、吉羅は思った。 「…しょうがない…、お嬢さんだね…」 吉羅は甘い声で囁くと、香穂子の唇に触れるだけのキスをした。 一瞬、香穂子が幸せそうに笑みを浮かべたものだから、吉羅は更に幸せな気分になる。 吉羅は、香穂子を抱き上げると、部屋に運ぶ。 夜が深くなった時間に、香穂子に会えて嬉しかった。 庭園で見た香穂子は、まるで妖精だった。 忌々しいものではなく、愛らしい妖精だった。 香穂子は本当に愛らしい。吉羅はそう思わずにはいられなかった。 香穂子が使っている部屋をノックすると、都築が出てきてくれた。 「まあ、理事長」 「日野君が眠ってしまってね…」 「まあ。 余程、疲れていたんでしょうね。日野さんは一生懸命頑張りましたから」 「そのようだね」 「日野さんのベッドはこちらです」 「有り難う」 吉羅は、香穂子をゆっくりと寝かせる。 腕の中の温もりがなくなるのが、ほんのりと切なかった。 ふたりであの子守歌の時間を思い出して、甘酸っぱい幸せを感じる。 「あれから何度か暁彦さんには子守歌を歌って貰いましたね。すごく幸せでした」 「君が風邪で寝込んでいる時や、後は、幸せ過ぎて眠れない夜にね」 「そうでした」 香穂子は、官能的な時間を思い出して、ほんの少しだけ甘い気分になった。 「…君にもお返しに沢山、子守歌を歌って貰ったね。これからもまた、沢山、歌って貰おう」 「はい…」 吉羅が疲れた時には膝枕をして、ゆっくりと子守歌を歌いながら、その柔らかくて綺麗な髪を何度も撫で付けたこともあった。 優しくて甘い思い出だ。 「息子も眠ったようだから、私たちもそろそろ眠ろうか…」 「そうですね。しばしの睡眠を取りましょうか」 香穂子と吉羅はお互いに腰を抱きながら、隣の寝室へと向かった。 息子には、まだまだ3時間おきの授乳をしなければならないから、ほんの少しの時間だ。 それでも良いからと、ふたりは一緒に眠っている。 ベッドに入ると、吉羅が抱き締めてくれた。 「暫く、ゆっくりと眠ろうか。子守歌が必要かな?」 「もちろんです、暁彦さん。子守歌を歌って下さい」 「…解った…」 吉羅は静かに言うと、懐かしいジョスランの子守歌を歌ってくれる。 特別に愛されている。 香穂子はそう感じながら、ゆっくりと目を閉じる。 きっと幸せでしょうがない夢が見られると、香穂子は確信していた。 |