*夏のノスタルジー*


 夏の夕刻に吹く風は、なんてノスタルジックなのだろうかと、香穂子は思う。

 優しい風は胸が締め付けられる。

 ムッとしない心地良い風は、香穂子にとってはノスタルジーを感じる。

 特に港の見える丘公園で感じる風は、とっておきのものだ。

 茜色から紫に変わる空の色を眺めながら見つめる空は、香穂子の心を震わせる。

 夏の夕暮れはなんと美しいものなのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 白地に花柄がプリントされたノースリーブワンピースに袖を通して、香穂子は夕焼けを真直ぐ見つめる。

 すると誰かの柔らかな影を感じた。

「香穂子、どうかしたのかね?」

 声を掛けられて、思わず振り返る。

 するとそこには大好きな男性が佇んでいた。

「…何をしていたのかね? 香穂子」

「夕焼けを見ていました。ここから見る夕焼けが、私は最高に好きなんですよ」

「そうか…」

 吉羅は、香穂子とそっと肩を並べると、優しい笑みを浮かべてくれた。

「確かにここから見る横浜の夕日は最高に美しいからね…」

「そうですね…。最高に綺麗ですよ」

「そうだね」

 吉羅はさり気なく香穂子の手を握り締めてきた。

 優しくて力強い手に包まれて、香穂子はつい笑みを浮かべた。

「君とこうして夕日を見るだけで癒されるよ」

「私もですよ」

 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅はそっと頷いてくれた。

 いつもは秘密の恋だから、学院の近くでこんなにも密着することは先ずはない。

 今日はスペシャルだ。

 紫と茜が入り交じった柔らかな夏のひかりは、吉羅を麗しく輝かせている。

 香穂子はついうっとりとせずにはいられなかった。

 暗くなる前の優しい光と闇に包まれた世界に、愛するひとと一緒に包まれるのは、最高に幸せだ。

 香穂子は吉羅に甘えるように寄り添った。

 ふたりで闇に包まれてゆく。

 なんて美しいのだろうと、香穂子は思った。

 やがて港やベイブリッジが地上の星のように輝き始めた。

「香穂子、このまま私の家に行かないか? ふたりでのんびりとしよう」

 このまま吉羅と一緒に過ごせるなんて、本当に嬉しい。

 素晴らしいプレゼントだと、香穂子は思わずにはいられなかった。

「車を停めてあるから、行こうか」

「はい」

 ふたりは誰に遠慮をすることもなく、しっかりと手を繋いで駐車場へと向かう。

「私が公園にいるのをどうして解ったんですか?」

「車を運転していて、君のシルエットが見えたからね」

「そうなんですか? よく分りましたね?」

「それは君だからだよ。君なら直ぐに見つけられる」

 吉羅は照れもせずに、嬉しいことをさり気なく言ってくれる。

 香穂子にはそれが嬉しかった。

「何だか嬉しいです」

「君だけは特別だよ」

 吉羅はさらりと言うと、車のドアを開けてくれた。

「有り難うございます」

 香穂子は嬉しいです気分で、車に乗り込む。

 こうして吉羅と一緒にいられることが、何よりも嬉しかった。

「夏休みなのに大変ですね」

「そんな風に思ったことはないよ。社会人なら当然のことではないのかね?」

「そうですね。私は確かに学生ですから、実感がないかも」

 香穂子は吉羅を見て、柔らかな気分で微笑んだ。

 車が静かに動き出す。

 優しいリズムだ。

 吉羅の運転はとても巧みで、香穂子はいつも安心して心地良く躰を任せていられる。

「…夕暮れの横浜をドライブするのもロマンティックで素敵ですね」

「そうだね…。ドライブがてら少しだけ遠回りをしようか?」

「良いんですか!?」

 遠回りドライブなんて素敵だ。

 香穂子は、思わず笑みを浮かべてしまう。

「私、暁彦さんとドライブをするのが大好きなんです」

「私もね。以前はひとりでドライブをするのが好きだったんだが、今は、君とドライブをするほうが楽しくなってしまった。私も変わるものだとつくづく思ったよ」

 吉羅はそこまで言うと、優しい笑みになる。

 あのクールビューティで、殆ど人前で笑うことがない吉羅暁彦が、恋人の前ではこんなにも柔らかな笑みを浮かべるなんて、誰も想像出来ないだろう。

 香穂子は恋人である自分だけの特権だと、幸せな気分になった。

「…君と付き合う前は、好きな時間なんてなかった。だが、君と付き合うようになってからは、どの時間であっても掛け替えのないものなのだと、思えるようになったよ…。どの季節も、時間も、最高に素晴らしく思えてくるよ。君と一緒にいるだけでね…」

 それは香穂子も同じことだ。

 吉羅と一緒にいるだけで、本当に幸せだった。

「私も同じですよ。暁彦さんと一緒にいるだけで、特別な時間を過ごしているって思えます。どの時間もかけがえのないものだって、思えるようになりました」

「…香穂子…。私たちはお互いに欠かせないということだね…」

 吉羅の言葉に、香穂子は嬉しくなって頷いた。

 吉羅がいない時間なんて考えられない。

 ずっとふたりで素敵な時間を重ねることが出来たらと、思わずにはいられない。

 吉羅もまた静かに頷いてくれると、ドライブがてら楽しませてくれた。

 

 吉羅の自宅に到着した後、香穂子は自宅に連絡をしておいた。

 毎度のことのせいか、香穂子の母親は直ぐに受け入れてくれた。

 まるで嫁に出したようだと言われる始末だ。

 そう思われても仕方がないところはあるのだが。

 吉羅とふたりで有り合わせのもので夕食を作る。

 有り合わせと言っても、そこは吉羅の家だ。

 様々な食材があり、立派な夕食を作ることが出来た。

 それは香穂子も素晴らしいと思わずにはいられない。

 今日も、カニの缶詰を使ったクリームパスタ、イベリコブタのハムを使ったサラダ、冷凍の鱈を使ったポワレ、コンソメスープに、デザートは帰りに買った夏らしい葛きりとフルーツ。

 これだけでも立派なディナーだ。

 しかも味が良いときている。

 かなり贅沢だ。

 空調の効いた部屋で、食事を楽しみながら、会話を弾ませる。

 香穂子は幸せな気分で、食事を進めた。

「香穂子、これをどう思うかね?」

 吉羅が差し出したのは、家の図面と写真だった。

 そこには住所が書かれていて、学院のすぐ近くだということが解った。

「学院の近くですね。うちにも近いです。立地条件としてはとても良いと思いますが」

「…そうか…。君にとっても私にとっても、かなり便利な場所には違いないといったところだね」

 吉羅はそこまで言うと、香穂子を真直ぐ見た。

「私は六本木からこちらに引っ越そうと思っている。学院にも近いからね」

「確かに暁彦さんにとってはかなり便利ですね。ギリギリまで眠っていられますし」

 吉羅に限ってはギリギリまで眠っているということはないが、ここならば夜遅くなったとしても便利だ。

「この家で、君と様々な季節を感じたいと思っているよ…。君とならば出来るからね。どの季節もどの時間帯も、君と一緒にいれば最高の時間だと感じることが出来るからね」

 吉羅は甘い魅惑的な声で呟くと、無防備な香穂子の手を取った。

「…香穂子、この家でずっと私と共に時間を過ごさないか?」

 吉羅は香穂子の手をギュッと握り締めて離さない。

 切なくなるぐらいの喜びに、香穂子の心はいっぱいになる。

「…生涯…、同じ季節と同じ時間を共有しないか?」

 吉羅の言葉が嬉しくて、香穂子は素直に頷いた。

「時間を共有させて下さい…。あなたと…」

「…有り難う…」

 吉羅の言葉が涙が出るぐらいに嬉しくて、香穂子は泣き笑いを浮かべずにはいられなかった。




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