前編
目覚めたときに、大好きなひとが隣で眠っていたら良いのにと、何度も思ったことがある。 それは、まだ、恋に恋していた頃と、全く変わらない。 今でも、恋に恋しているかもしれない。 そう感じさせてくれるひとと、一緒にいるからかもしれない。 まだ、一緒に目覚めるとか、そんな経験はない。 それに、夢見ていた頃と違い、今は、それがどのようなことを意味しているのか、十分に分かっているつもりだからだ。 純粋に夢見ていた頃は、甘い甘い砂糖菓子のような気持ちになっていたし、そのように夢を見ていた。 今は、そうなりたいと思いながらも、そうなる勇気がない自分に、香穂子は少しジレンマを感じていた。 色ちがいのお揃いのパジャマを恋人と着るのは、ずっと夢見ていた。 だが、香穂子の恋人候補は、そのようなことを最も興味がないひとだ。 いつもスマートで大人の対応をする。 甘い雰囲気なんて求めることすら無謀なのではないかと、ついつい思ってしまうような雰囲気を持っている。 彼には甘い雰囲気よりも、艶が似合う。 到底、今の香穂子には持ち合わせてはいない雰囲気だ。 そんな雰囲気を漂わせられると、香穂子としては、なかなか近寄りがたい。 だが、お揃いのパジャマを着て、一緒に目覚めたいのは、吉羅だけなのだ。 吉羅しかいないのだ。 そんな関係になるのは、夢物語のようにも、思えてならなかった。 今日は吉羅と海辺のレストランでランチをする。 午前中にしっかりと練習をしたあとのごほうびだ。 最近、ようやくヴァイオリンが一人前に弾きこなせるようになってきた。 弾きこなせると言っても、なかなか上手くいかないのではあるが。 ヴァイオリンを専攻する生徒に追い付いてきたといったところだ。 これでも数年前までは、全くの素人だった香穂子にはかなりの進歩だ。 ここまでこられたのは、当然、吉羅を始めとした、周りのサポートがあったからではあるが。 それゆえに、香穂子は誰よりも吉羅に感謝している。 感謝が恋に変わる。 それは、香穂子にとっては、ごくごく自然なことだった。 自然に吉羅に恋をして、愛し始めた。 まるで呼吸をするかのように。 香穂子にとって、吉羅に恋をするのは、必然だったと思える程だった。 吉羅と海の見える場所でランチをするため、少しでもきれいに見せたくて、ホワイトをベースに柔らかなイエローが入ったワンピースを着た。 少し子供っぽく見えるのではないかと、香穂子は思ったが、どのような格好をしたとしても、吉羅にとっては自分はいつまでも子供なのだと、言い聞かせた。 肌を美しく見せる日焼け止めと、グロス効果があるリップだけに留めておく。 本当は化粧をしたいけれど、道具も満足には揃ってはいないし、それよりも吉羅があまり良い顔をしないのではないかとも思った。 香穂子はまだ大学生になったばかりで、未成年の子供だと思われているのだから。 練習の後、高校にある理事長室に行くと、ブラックの質の良いカットソーに、いかにも大人の男を魅力的に見せるジーンズを組み合わせた、艶と大人のクールさを滲ませた吉羅が、仕事をしていた。 その艶に、香穂子は息を飲んだ。 ずっと見つめていたいと思わずにはいられないほどに、吉羅は完璧なまでに艶やかだった。 綺麗さと精悍さを滲ませている。 急に自分が恥ずかしくなる。 香穂子はつい萎縮をせずにはいられなくなった。 「日野くん、支度は出来たから行こうか」 吉羅に声を掛けられて、香穂子はようやく自分を取り戻した。 「あ、は、はいっ!」 香穂子は慌てて返事をしたが、吉羅は怪訝そうに見つめてくる。 「どうしたのかね?」 少し意地悪な笑みを浮かばれて、香穂子は息を飲んで黙りこむ。 「……な、なんでもない、です」 「なんでもない、ね……」 吉羅は、何もかもお見通しかのように、フッと微笑む。その笑みが、憎らしいぐらいに魅力的だ。 「今日はよく頑張っているから、ご褒美だ。たまにはゆっくりしたまえ」 「はい、有り難うございます」 吉羅と一緒に出掛けるときは、いつもデート気分だ。 だが、実際に一緒に出掛けると、そうではないことを想い知らされる。 香穂子はそれを感じるたびに、苦しくなる。 吉羅の車に乗り込み、レストランに向かう。 ここまででもやはりデートのようだ。 だが、空気は固いままなのだ。 同じパジャマで目覚めるなんて、本当に夢のまた夢なのだろうと、香穂子は思った。 溜め息を吐きたくなる。 レストランに入っても、スマートにエスコートをしてくれた。 食事も、とても美味しい。 最初はそれでも良かった。 だが、今はそれでは物足りない。 これがデートではないからだ。 それを想い知らされるから、嫌なのだ。 音楽の話がふたりの共通項であるし、話していてもついつい楽しくて、沢山話してしまう。 他の話題も色々と話すことが出来たら良いのにとも思う。 「大学生活はいかがかね?」 「ヴァイオリン漬けです。楽しくて充実していますけれど」 「それは良かった。だが、夢中になりすぎて、健康を損なわないようにだけはしたまえ」 「はい。有り難うございます。気を付けます」 「身体が資本だからね」 「丈夫ですから」 「丈夫な人間ほど過信するからね」 吉羅の言葉の裏には、姉の死があることを、香穂子は分かっているからこそ、心配させたくはない。 だから丈夫なたちだとあえて口にしたのだ。 「気分転換に、ヴァイオリンの他にも夢中になれるものを見つけると良い」 ヴァイオリン以外に夢中になれるもの。 それが目の前にいるひとなのだということを、吉羅は気づいているのだろうか。 気付いていて、気づかないふりをしているのだろうか。 それだと苦しい。 「……例えば……、恋、ですか……?」 香穂子の言葉に、吉羅は、一瞬、黙りこむ。 だが、すぐにいつもの表情に戻った。 「一気に燃え上がり、燃え尽きるような恋はしないほうが良い。ヴァイオリンに悪い影響があるからね」 「一気に燃え上がり、燃え尽きるような恋は、していません」 香穂子がキッパリと言い切ると、吉羅は冷徹な表情で香穂子を見つめる。 冷えきった眼差しだった。 香穂子は、吉羅に咎められているような気分になり、そのまま黙りこむしか出来ない。 吉羅がどうしてそのような表情をうかべるのか、香穂子には分からなかった。 |
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