吉羅と結婚をしたからといって、香穂子の生活が劇的に変化したわけではない。 結婚前も同棲に近い生活をしていたから、大きく変わったわけではなかった。 ただ、うちに帰らなくても良くなったことは大きい。 吉羅とずっと一緒にいられるというのは、香穂子にとっては何よりもの幸せに違いはなかった。 今夜も吉羅は家でもみっちりと仕事をしている。 出来る限り定時で仕事を終えて、そのまま仕事を持ち帰るのが、今のパターンだ。 仕事をしていても、すぐそばにいてくれる。 香穂子にとってはそれだけで嬉しかった。 今夜も食事を終えた後で、吉羅は仕事を始める。 これも香穂子とより多くの時間を共有してくれるためなのだ。 こうして時間を作るために努力をしてくれている吉羅が、香穂子は愛しくてしょうがなかった。 吉羅のために、今夜は紅茶を淹れる。 出来る限り妻らしいことをしたいと、香穂子は常に思っていた。 ヴァイオリンを続けることをバックアップしてくれている愛しいひとのために、香穂子は出来る限りのことをしたいからだ。 紅茶を出すと、吉羅はふと顔を上げて微笑んでくれる。 「有り難う」 「お仕事頑張って下さいね」 「ああ」 吉羅は再び仕事に視線を落とす。 吉羅が仕事をしている様子を見るのが、香穂子は何よりも好きなのだ。 仕事をしている吉羅は、精悍そのものだからだ。 ついうっとりと見つめてしまうほどだ。 これが香穂子の隠れた楽しみになりつつあるのだ。 じっと吉羅の横顔を夢見心地で見つめていると、気付いたように目が合った。 「香穂子、どうしたのかね?」 吉羅のよく通る低めの甘い声が香穂子を捕らえる。 「何でもないです。ただ、暁彦さんを見つめていたかっただけで…」 香穂子はニコニコ笑いながら吉羅を見つめると、素直な気持ちで言う。 すると吉羅は困ったような顔をした。 「君はどうしようもないね…。仕事が出来なくなる」 「ごめんなさい。あ、お仕事邪魔しないようにしますね。えっと、あ、本でも読んでますね」 香穂子は、本に集中するために俯く。 だが、吉羅のことが気になってしまいしょうがない。 だが、仕事を邪魔するわけにはいかなくて、香穂子は静かに本を読む。 本はクラシカルな恋愛小説で、何も考えずに集中して読める点が嬉しかった。 目の前に、ロマンス小説から抜け出たような男がいるのだが、香穂子は集中しないようにしようと必死だった。 香穂子が本に没頭してしまうと、吉羅は先ほどよりも落ち着かなくなるのを感じた。 香穂子がロマンティックに見つめてくれているのが、吉羅には嬉しかったのだ。 香穂子がそばにいるだけで、幸せに気持ちになりながら仕事をすることが出来る。 ただ、余り熱く見つめられると、欲望が込み上げてくるのは確かなのではあるが。 ちらりとぐらいならば見つめて欲しいと思ってしまう。 全くなんて複雑なのだろうかと思う。 これが妻に恋をする自分なのだろう。 ちらりと香穂子を見ると、すっかり本に夢中になってしまっている。 自分だけを見てほしいだなんて、本に馬鹿な嫉妬すらしてしまう。 それだけ香穂子を愛しているのだ。 執着していないつもりなのに、改めてこんなにも執着をしているのかと、思わずにはいられない。 吉羅は、つい香穂子を見つめてしまう。 これでは先ほどよりも仕事の効率は落ちてしまっているのではないかと思った。 小説を読んでいても、本当につまらない。 吉羅の仕事ぶりを見つめているのが一番幸せだと、香穂子は思わずにはいられない。 本を読むのを止めて、吉羅を横目で見た。 すると吉羅と目が合ってしまう。 また怒られるのではないかと思い、香穂子は視線を本に戻した。 「どうしたのかね?」 「な、何でもありません」 「構わないよ」 「え…?」 吉羅の意外な言葉に、香穂子は思わず顔を上げた。 まさか構わないと言われるとは思わなかった。 「君が見つめてくれていないと、私は落ち着いて仕事が出来ないようだ」 吉羅はほんのりと照れ臭さを滲ませると、香穂子を見つめた。 見つめて良いのだと言われると、やはり嬉しくて、香穂子はホッとして吉羅を見つめることにした。 「私、暁彦さんがお仕事をされる様子を見るのが大好きなんですよ」 香穂子が嬉々として言うと、吉羅は困ったような優しい表情をする。 「…君はしょうがないひとだ…」 吉羅は溜め息を吐きながら、香穂子の手をギュッと握り締める。 「私の仕事を邪魔するのかね」 「え…?」 吉羅はいきなり立ち上がると、香穂子の前にゆき、思い切り抱き締めてきた。 「あ、あのっ!?」 「君は全くしょうがない女性だね…。可愛くてしょうがない…」 吉羅は深みのあり掠れた声で囁くと、香穂子の唇を軽く奪う。 最初は甘い羽根のような優しいキスで、徐々に深みが増してくる。 深くお互いに唇を吸い上げた後、舌を絡ませ合う。 大胆なキス。 情熱的なキスは、更に激しくなってゆく。 香穂子は吉羅を引き止めるように背中にしっかりと腕を回して、キスに応える。 こんなにも大胆に欲しい相手は、吉羅だけだ。 激しいキスに、香穂子はくらくらとしてしまいそうだ。 息を浅くしながら、ふたりは更なる愛情の交換がしたくなる。 恋人以上に情熱的な夫婦は、お互いの唾液を交換しながら、更に貪るようにキスをした。 どうしようもないぐらいに、お互いに相手を求めているのだからしょうがない。 呼吸を忘れてしまうのではないかと思うぐらいに、お互いに激しくキスをした後で、ふたりは唇を離した。 もう仕事なんでどうでも良いと思うぐらいに、お互いの情熱が沸騰してしまっている。 もうこうなってしまうと、手が付けられない状況になる。 吉羅に熱く見つめられたかと思うと、抱き上げられる。 「君は営業妨害だ」 吉羅がくすりと甘い笑みを浮かべながら言うが、香穂子も負けてはいない。 「暁彦さんも安眠妨害ですよ?」 香穂子がくすりと笑うと、吉羅はそれを認めるように頷いた。 そのままふたりだけの甘い寝室に入ると、ベッドに寝かされる。 吉羅と紡ぐ甘い時間が始まると思うだけで、香穂子の情熱は激しく高まる。 ふたりはこのまましっかりと抱き合うと、愛の世界へと向かった。 愛を交換し合った後はとても心地が良いまどろみが訪れる。 香穂子は吉羅に甘えるように躰を寄せながら、うっとりと見つめた。 「…暁彦さん…、こうしてふたりでくっついているのが、一番幸せです。有り難うございます…」 香穂子がうっとりとした気持ちで呟くと、吉羅は更にキツく抱き締めてきた。 「…私もこうして君と一緒にいることが何よりもリラックスが出来るよ。これじゃあ仕事にならないね」 吉羅は苦笑いをしながら躰を起こした。 「後少しで仕事が終わるから、少しだけ待っていてくれないかね? 終わったら続きをしよう…」 吉羅の声が酷く官能的に響き、香穂子は喉の奥までもが圧迫されるような満たされた幸せを感じた。 「…待っています…」 「ああ、眠っても構わないが、戻ってきたら君を起こしてしまっても構わないかね?」 「はい、そのほうが嬉しいです」 「解った…」 吉羅は低い声で返事をした後、香穂子の額にキスをしてくれる。 そしてベッドから出ると、仕事に向かう。 吉羅が仕事を終えるのを待ちながら、香穂子は幸せなまどろみに包まれていた。 |