ずっと見守ってきた蕾のような彼女。 せめて高校を卒業するまではと、吉羅は見守り続けてきた。 香穂子は無事に大学生になった。 もう大人の女性としての第一歩に差し掛かろうとしている。 見守るだけでは物足りなくなっている。 見守るばかりだと、それこそ鳶が油揚げをさらうように、何処かのガキに香穂子を奪われかねない。 そんな危機感が、吉羅には今渦巻いている。 香穂子を誰かにさらわれたくはない。 香穂子をさらいたいのは自分なのだから。 しかも。 有力なライバルのひとりが、可愛がっている年下の従弟であることも、吉羅を落ち着かなくさせている。 いくら桐也であろうとも、香穂子だけは渡すこと出来ない。 それだけは吉羅にとっては譲れないラインであるのだ。 今日は三人でクラシックコンサートに行くことになっている。 吉羅はふたりを車で乗せて行くことにしている。 集合場所はお馴染み理事長室だ。 香穂子と二人きりならば何処かで待ち合わせをするところだが、桐也が一緒となると話は別だ。 何処かで待ち合わせをして行くと、ふたりきりの時間を作ってしまうから拙い。 ここまで考えて吉羅は苦笑する。 恋が絡むとこのように考えてしまうなんて、思ってもみなかった。 余裕があるように見えて、全く余裕がない。 香穂子が絡むといつもそうなのだ。 吉羅は仕事をしながら、ふと窓の外を見た。 柔らかな陽射しに照らされて、香穂子が走っているのが見える。 もうすぐここにやってくる。 その姿を想像するだけで、つい笑顔になってしまう。 だが、香穂子の前ではあくまでいつものクールな自分を演じるのだ。 足音が聞こえてきた。 昔から全く変わらない。 吉羅はフッと微笑みながら、香穂子を待構えた。 桐也はまだ授業だ。 だから少しの間、香穂子とふたりきりでいられるのだ。 ドアがノックされる。 吉羅は表情を引き締めると、背筋を糺す。 「理事長、日野です」 「入りたまえ」 吉羅が声を掛けると、香穂子理事長室に入ってきた。 「失礼します。こんにちは理事長」 香穂子はいつものように元気いっぱい明るくやってくる。 「理事長、コンサートのお誘い頂いて有り難うございます。これお礼です。理事長に」 香穂子は嬉しそうに白い小さな紙袋を手渡してくれた。 「何かね?」 「豆大福です。とっても美味しいんですよ」 香穂子は自分の分も買ったのか、嬉しそうに見せている。 「衛藤君の分も買おうと思ったんですが二個しかなくて…。衛藤君には草餅を買ってきました。だから今のうちに食べちゃいましょう」 香穂子はいたずらっ子のように笑うと、袋から大福を取り出して食べ始めた。 「全く君は…」 香穂子と同じものが食べられるのが嬉しくて、吉羅は静かに微笑むと豆大福を食べる。 「美味しいですね」 香穂子と一緒に食べると何でも美味しいと思う。 「そうだね。有り難う、日野君」 吉羅が静かに言うと、しっかりと味わった。 「ご馳走さまでした」 香穂子は素直な笑顔を浮かべると、紙袋を「証拠湮滅」と言って、吉羅の机の下にあるゴミ箱に捨てた。 だが顔を上げた香穂子の口許には、白い大福の粉が着いていた。 全く香穂子らしい。 吉羅はつい苦笑いをしてしまった。 「日野君、それでは証拠湮滅にはならないよ」 「はい…?」 「口に着いているよ。大福の粉」 吉羅がクールに指摘をすると、香穂子は真っ赤になってハンカチをバッグから取り出して、慌てて拭く。 「有り難うございます」 香穂子の恥ずかしそうな笑顔を見ると、幸せな気持ちになる。 吉羅は笑顔だけで、こんなにも一喜一憂する相手は、香穂子以外にはいないと思った。 「ご馳走さま。コンサート後の食事で返すことにしよう」 「いつも理事長には色々として頂いているから」 香穂子は大福なんかで申し訳ないと言うと、笑顔になった。 ノックがされると同時に、ドアが開いた。 「お待たせ、暁彦さん! あ、香穂子さんも来ていたんだ」 衛藤は吉羅に挨拶をするなり、直ぐに香穂子に視線を向ける。ある程度予測が出来るリアクションではある。 「衛藤君、お腹が空いたでしょう? はい、草餅」 香穂子は衛藤に小さな紙袋を渡す。 それがよほど嬉しかったのか、衛藤は高校生らしい笑顔になった。 「有り難う、香穂子さんっ!」 衛藤は本当に嬉しそうに笑った後、吉羅に少しだけ勝ち誇る視線を向ける。 吉羅は、心の中で「残念だったね、桐也。豆大福は売り切れだ」と、大人気なく呟いてほくそ笑んだ。 「桐也が食べ終わったら行こうか」 「うん。あ、暁彦さん、仕事は?」 「今日の分は済ませてある」 「だったら行こう」 吉羅が鞄を持つと、香穂子たちも一緒に理事長室を出る。 今日のコンサートは、モーツァルトを中心にしたヴァイオリンコンサートだ。 ふたりに勉強をしてもらう意味も込めて誘ったのだ。 車でコンサートホールまで行く。 まるで遠足のようなのりだ。 本当は香穂子を座席の前に乗せたかったのだが、桐也の手前、そういうわけにはいかなかった。 香穂子とはキチンと付き合っているわけではないのだから。 少しだけ桐也に嫉妬を感じながら、車をコンサートホールに向けて走らせた。 しかしホールの座席は、香穂子、吉羅、衛藤の順番にしておいた。 これがある意味正しいと思っている。 衛藤は少し嫌そうだったが、そのまま座席に着いた。 香穂子は本当に楽しみだとばかりに、ニコニコと笑っている。 横顔を見ているとキラキラしていて、吉羅は美しいと思った。 いよいよコンサートが始まる。 コンサートの間、吉羅はヴァイオリンどころではなくて、ただ香穂子の横顔ばかりを見ていた。 それぐらいに香穂子は綺麗だった。 コンサートが終わり、三人でホール近くのレストランで食事をする。 レストランでは、衛藤と香穂子が並んで座る。 してやられたとは思ったが、しょうがなかった。 ただ吉羅はさり気なく香穂子の向かい側に腰を下ろした。 せめてもの抵抗だ。 衛藤は香穂子に一生懸命話し掛け、ヴァイオリンの話に夢中になっていた。 香穂子が気遣ってか、たまに吉羅に話し掛けてくれるのが嬉しかった。 どちらかといえばドライな印象の衛藤ではあるが、香穂子に対しては、かなり積極的だった。 こんなにも一生懸命、女の子を楽しませようとしている衛藤は、日野香穂子の前以外では見られない。 純粋で深い恋心を抱いているのだろうと、吉羅は思った。 食事の後、吉羅は先ずは衛藤を家に送る。 叔母の話は長いのでそれを防ぐ目的があるのと、最初と最後ぐらいは香穂子とふたりだけでいたかった。 衛藤を送った後、いよいよ香穂子とふたりだけになる。 「理事長、今日は本当に有り難うございました。楽しく勉強になりました」 「それは良かった…。今度も誘っても構わないかね? コンサートのチケットを二枚頂いたんだが…」 香穂子の顔に薔薇色の笑顔が浮かぶ。 これはふたりきりで逢うのが嬉しいと取っても良いのだろうか。 「是非!」 「こちらこそ」 吉羅はステアリングを握りながら、鼻歌を歌いたくなるような幸せを感じた。 後ほどふたりが付き合うようになり、香穂子は、衛藤を可愛い弟と思って接していると、にこにこと笑って言っていた。 その言葉に、吉羅が嬉しくなったのは言うまでもなかった。 |