社会人の多忙過ぎるひとに恋をしていると、自由に会うことが出来ない。 逢いたい。 逢いたくてたまらない。 一緒にいる時の楽しさを思い出す度に、胸が痛いぐらいに切なくなる。 夏休みといっても恋を謳歌するわけではなく、今日も練習室でひたすらヴァイオリンを弾いている。 今日も息切れをしてしまうほどにしっかりと練習をし、香穂子は溜め息を零した。 ヴァイオリンを触るのは大好きだし、弾いていると何よりもの幸福を感じることが出来る。 だからこそこうして立っていられる。 だが、練習を終えてふと疲れた時に、こころのエネルギーのチャージが上手くいっていないことに気付く。 逢いたい。 あのひとに逢うことが出来るならば、きっとこころは満タンになるから。 逢いたくてたまらない。 もうどれぐらい逢っていないのだろうか。 香穂子は腕時計を見て、時間を確かめた。 今から六本木方面に出てもそんなには遅くならないはずだ。 ただあのひとがいる空間で、同じ空気を吸っていられればそれで良いから。 あえないならせめて、同じ空間で同じ空気をシェアしたかった。 香穂子は思い立つと、ヴァイオリンを抱えて駅に向かった。 おこずかいは貰ったばかりだから、麻布十番までは往復出来るだろうから。 香穂子は電車に飛び乗ると、衝動的に吉羅の住む街へと向かった。 ようやくひといき吐くことが出来て、吉羅は天井を見上げた。 学院の理事長の顔と、ヘッジファンドの代表としての容赦のない顔。 そのどちらもこなすには、それこそ一日が24時間では足りない。 働いても、働いても、仕事が片付くことがないほどの状態が続いていた。 今は一段落ついただけで、時間が出来たわけではない。せいぜい気分転換に麻布十番の商店街をうろつくことしか出来ない。 到底、横浜にいる香穂子に逢いに行くことなんて出来ない。 吉羅は目を閉じると、開放的でノスタルジーを抱く街と、香穂子の笑顔を思い浮かべた。 逢いたい。 逢いたくてたまらない。 あの華奢な躰を思い切り抱き締めて、キスをして…、その温もりを感じたい。 こころのエネルギーが空っぽになってしまっていると感じるぐらいに、香穂子に飢えている。 車を飛ばして香穂子に逢いに行きたい。 その笑顔を間近で見るだけでも良いから。 ただ抱き締めることが出来ればそれだけでも良いから。 吉羅は香穂子に飢えて窒素してしまうのではなないかと思いながら、ネクタイを緩めた。 逢いたくて逢いたくてしょうがない。 こんなに深い思慕を、他人に向けることなんて、今まであり得なかったというのに。 香穂子が逢いたいが故の溜め息を吐くと、吉羅は携帯を手に取った。 本当は声だけでは足りない。 温もりが欲しい。 笑顔が欲しい。 だがせめて声だけでもと思い、香穂子の携帯番号を呼び出す。 いつも、香穂子が出るまでの間、優しくて甘い鼓動を刻むなんて、きっと本人は知らないだろう。 だがいつもそうなのだ。 甘酸っぱい感覚に、吉羅はこころを乱されっ放しだった。 コールをしたところ、無情にも無機質なアナウンスが流れて来る。 「おかけになった電話は、現在電源を切られているか、電波の届かないところに…」 そこまで聴いたところで、吉羅は電話を切った。 香穂子は恐らく練習をしていて、電源を切っているのだろう。 「…ったく、私はタイミングが悪いな…」 吉羅は苦笑いを浮かべると、携帯電話の電源を切り、再び仕事に戻った。 人並みに仕事はこなしているものの、やはりエネルギーのチャージがないと、なかなか上手く進まなかった。 吉羅は香穂子さえそばにいてくれれば、もっと仕事は捗るだろうにと、思わずにはいられなかった。 その頃、香穂子は電車に揺られながら、ひたすら落ち着けずにいた。 逢えるとは限らないというのに、偶然に何処かで逢えるのではないかと、半ば期待をしてしまう。 偶然に逢えたならば、きっと強く抱き着いてしまうだろう。 香穂子は、吉羅に逢えることをひたすら祈りながら、麻布十番に向かって進んでいた。 神様、どうかお願いです。大好きなひとに逢わせて下さい。 香穂子は強く祈るしかなかった。 麻布十番に着いた頃には、期待と緊張がピークに達していた。 麻布十番商店街を抜ける間に、吉羅に逢えるのではないかと、そればかりを考えていた。 空を見上げると、綺麗に茜色に染め上げられている。 夏の終わりの夕焼け空は、泣きそうになるぐらいにノスタルジーが溢れている。 何だか泣けてきた。 恋しているが故に、敏感になっているのかもしれない。 携帯電話を手に取り、香穂子は吉羅の番号を呼び出す。 こちらから電話を掛ける時は、最大級に緊張していることを、きっと吉羅は知らないだろう。 ドキドキが激しい余りに気絶しそうだということを、きっと知らない。 香穂子がコールをするものの、無情なアナウンスが響いて来る。 「おかけになった電話はただ今、電波の届かないところにいるか…」 香穂子は携帯電話を切ると、溜め息を吐く。 電話に出られないぐらいに忙しいのだろう。 香穂子は切ない空気を吸いながら、ゆっくりと歩いていった。 仕事は少しは進んだものの、とても効率が悪い。 こころのエネルギーチャージが出来ていないからか、めいいっぱいのところまで追い詰められているような気がした。 吉羅はパソコンに向かうのを止めると、一旦立ち上がる。 ほんの少しでも気分転換は必要だ。 躰とこころの疲労が重なると、仕事に悪影響を与えるこては解っていたというのに、上手くできなかった。 取りあえずは、外の空気だけでも吸い込んで気分転換をはかりたい。 吉羅は部屋から出ると、麻布十番商店街へと向かった。 こんなところで逢えるはずなんてないのに。 賑わう商店街をしょんぼりと歩きながら、香穂子は人いきれを吸い込んだ。 ほんの近くに吉羅が住むヒルズが聳えたっている。 こんなにも近くにいるというのに、会えないのがもどかしい。 いますぐに逢いたい。 香穂子が溜め息を着いていると、温かくて優しい影を感じた。 「…香穂子?」 顔を上げると、そこには吉羅が驚いたように立っていた。 商店街をぶらぶらしたところで、完全に気分転換にはならない。 そこに香穂子がいないのだから当然だ。 吉羅はひとごみのなかで香穂子を探そうとする自分に苦笑いしながら、ゆっくりと先へ進む。 「……!」 一瞬、逢いたいからだと願う故の幻だと思った。 だが目の前には明らかに香穂子がいる。 吉羅は胸を締め付けられるような幸福を感じながら、香穂子に腕を伸ばす。 放したくなかった。 目の前に蜃気楼が見えたかと思った。 香穂子は吉羅の姿を視界のなかにしっかりと入れると、嬉しさの余りに息を呑んだ。 涙が出てしまいそうなぐらいに嬉しい。 吉羅の腕が伸びて、しっかりとその手を結んできた。 「香穂子…」 握り締められた手は、離さないと囁いているかのように強い。 「暁彦さん…」 「どうしてここに…?」 「逢いたくて。それがダメなら同じ空気を吸うだけでも良かったから…」 吉羅はさらうように香穂子を引き寄せると、そのままヒルズへと歩いていく。 「暁彦さん、み、みんな見ています」 「構わない」 マスコミから経済界の寵児として度々取り上げられている吉羅だから、当然、顔も知られているし、パパラッチもついてくる。 なのに堂々とこうして手を取ってくれるのが嬉しかった。 「香穂子、私のこころを沢山満たしてはくれないか? 君がいれば仕事は…捗るから」 吉羅は何処か照れ臭くしながら、香穂子を自宅へと誘う。 「私にも沢山暁彦さんをチャージして下さい。じゃないとヴァイオリンを上手く弾けませんから」 「ああ」 吉羅のプライベートルームに入るなり、ふたりは時間を惜しむかのように深く抱きあう。 いくらチャージしても足りない。 深く深く抱き合いながら、ふたりは幸せの活力を見出していた。 恋の神様が起こした偶然に感謝。 |