音楽は楽しむものだ。 そう教えてくれた学院には、いつも感謝している。 学院に通って、ファータと出会ったことがきっかけで、愛する男性とも出会うことが出来た。 香穂子は、星奏学院の理事長に公式に呼び出されて、理事長室に向かう。 こうしてきちんとけじめをつけて呼び出すあたりは吉羅らしいと思う。 きちんとした公式のオファーであるから、香穂子はフォーマルなスタイルでやってきた。 フォーマルと言っても、今は制約があり、なかなかそのようなスタイルが出来ないのではあるが。 理事長室がある特別棟に向かう。 香穂子は懐かしくて、甘酸っぱい想いを抱いていた。 懐かしい理事長室までの廊下。 何だかタイムスリップでもしてきた気分だ。 まだ学院の生徒であった頃、ヴァイオリンを片手に走っていたのを思い出す。 今もまたヴァイオリンを片手に向かってはいるが、あの頃のように走ってはいない。 あの頃は、大好きな男性に早く追いつきたくて、走ってばかりいたような気がする。 本当に遠い過去だ。 今も走りたい気分だが、恐らくは怒られてしまうだろう。 理事長閣下に。 こんな格好で走るなと。 どのように怒るかが想像出来てしまうところが、またおかしかった。 香穂子はようやく理事長室前にたどり着く。 この前に立つのも久し振りだ。 緊張してしまうのと同時に、懐かしさについ微笑んでしまった。 「…じっとしていてね…」 香穂子は繋いだ手の温もりにそっと語り掛けた。 大好きな男性がいる日溜のような場所に、もうすぐ脚を踏み入れる。 香穂子を背筋を伸してノックをした。 「理事長、日野です」 「入りたまえ」 高校生の頃と同じように硬くて低い声が響く。 「はい、失礼します」 香穂子はわざとかしこまった風に言うと、ドアを開けた。 「パパーっ!」 吉羅の顔を見るなり、しっかりと手を繋いでいた娘が手を放して、父親に向かって一目散に走っていく。 「美夜!」 吉羅は厳しい理事長としての顔から、一瞬で父親としての優しい顔になる。 「美夜ちゃん、パパはお仕事中なのよ?」 香穂子はやんわりと言うと、吉羅を見た。 「良い気分転換になる。それにこの時間を楽しみにしてきたからね」 吉羅は自分と同じ髪の色をしている娘の頭を、優しく何度も撫でた。 「掛けたまえ、日野君」 「はい」 香穂子は、旧姓で呼ばれたことをくすぐったく感じながら、ソファに腰をかけた。 娘もまた、香穂子の横にちょこんと座らせる。 「妊娠中の君を余り無理はさせたくはないんだが、少し頼まれて欲しいことがあってね」 「はい」 吉羅がこうして依頼をかけてくるということは、学院に関わることなのだろう。 「今度、音楽科の女子生徒を中心に、アンサンブルを組んで、全国大会に出場することになってね。週二回、一時間ほど指導をしてやってくれないかね? 君が適任だという意見が上がってね。…特に、火原君からね…」 「火原先輩…!」 香穂子は懐かしさで胸がいっぱいになりながら、その名前を口にする。 「君はプロのヴァイオリニストであるし、その上、アンサンブルにはかなり慣れているからね。そのあたりが決め手になってサポートを頼めないかと、言ってきたんだよ。君が子育て中であることは、彼は承知しているからね。まあ流石に二人目を妊娠中だということは、思ってもいないだろうがね…」 吉羅は優しいまなざしで、丸みを帯びた香穂子のお腹を見つめた。 「是非、お受けします。吉羅理事長。大好きな学院の後輩の手助けが出来るなんて、こんなにも素晴らしいことはないですから。ご存じのように安定期に入っていますから、大丈夫ですよ。赤ちゃんも喜ぶと思いますよ」 香穂子は笑顔で引き受ける。 愛するひとたちのためならば、これぐらいはしてあげたい。 「日野君、出来る限りのサポートはする。レッスンの間は、私が娘のベビーシッターをしよう。どうしても難しい場合は、君の実家のお義母さんに、助けて頂かなければならないけれどね」 「そうですね。美夜ちゃんも、お父さんと一緒にいるのは嬉しいでしょうから」 香穂子が笑顔で返事をすると、吉羅はフッと微笑んだ。 「話はそれだけだ。うちでも話すことは出来たが、けじめをつけるためにも、きちんとした形で依頼を掛けたかったんだよ…」 「有り難うございます」 香穂子は吉羅の気遣いについ笑顔になる。 「火原君がそろそろやってくる。久し振りだろう?」 「はい。このお腹を見たらびっくりされるかもしれないですね」 香穂子は、火原のリアクションを想像して、くすりと笑ってしまう。 「そうだね」 吉羅もフッと微笑んだ。 「ケーキを用意しておいたから準備しよう」 「私がしますよ。暁彦さんは紅茶でしたね? 先輩もそれで良いですね。美夜はミルクティーで、私はミルクにします」 「有り難う」 香穂子は勝手を知っている理事長室の奥にあるパントリーで手早く準備をする。 付き合っていた頃に、よくこうしてお茶の準備をしたものだ。 香穂子が準備を終えた頃に、火原が入ってくる音が聞こえた。 あれから八年経つが少しも変わらない。 香穂子はケーキとお茶を乗せたトレーを持って、パントリーからひょいと顔を出した。 「お久し振りです、火原先輩」 香穂子が笑顔で挨拶をすると、火原はあの頃と同じような笑みを浮かべた。 「香穂ちゃん! 本当に久し振りだね!」 香穂子は、火原の笑顔を見て懐かしく思いながら、席の前にケーキとお茶を差し出した。 香穂子の突出たお腹が明らかになると、火原は目を丸くする。 「香穂ちゃん! お腹に赤ちゃんがいるの?」 「はい。二人目です」 香穂子が笑顔で言うと、火原は少しノスタルジーが感じられるまなざしをする。 「…そうなんだ。幸せなんだね」 「はい」 香穂子は迷うことなく笑顔で返事をした。 「香穂子、お前も座りなさい」 「はい」 香穂子は娘の隣にちょこんと腰を下ろす。 「香穂子がご覧の通り、二人目を妊娠中でね、今は安定期だから構わないが、出産間近になると、余り負担をかけることが出来なくなるから、それ以降は協力が難しくなるから、それだけは理解してくれ」 「はい」 火原は頷く。 「協力して貰うだけでも、有り難いと思っています。アンサンブルのリーダーの生徒が、香穂ちゃん、いや香穂子さんに似ていますから、とても勉強になると思います」 「それは良かった」 吉羅はしっかりと頷く。 「私もみんなに会えるのがとても楽しみにしています。出来る限り協力させて貰います」 「有り難う」 火原はまるで高校生の頃に戻ったように、香穂子の手をギュッと握り締めた。 「宜しくお願いします」 細かい打ち合わせをした後、授業があるからと火原は行ってしまった。 再び一家水入らずになる。 ふたりの娘はといえば、ケーキを食べてお腹いっぱいになったからか、眠ってしまった。 ソファに寝かせながら、香穂子は幸せな気分になった。 「君が私のものだって示すには、このお腹を見せるのが一番だね。実際に、火原君は切なそうだったけれどね」 「もう…暁彦さん…」 香穂子は苦笑いを浮かべた後、窓の外に広がる空を見上げる。 「また、楽しくも賑やかな日々が始まりますね」 「そうだね」 香穂子は頷きながら、後輩たちに想いをはせる。 忘れられない素晴らしい夏が、また始まる。 |