「香穂子、電車が止まってしまったみたいだ」 吉羅の声にテレビに注意を向けると、台風の影響で電車が次々と運転を見合わせていることを知った。 「…帰れなくなっちゃう」 香穂子は切ない気分になり唇を尖らせた。 「無理して帰らなくても良いんじゃないか?」 「え…?」 ドキリとした一言が投げ掛けられたかと思うと、いきなり背後から抱き締められる。 「…あ、あの…」 「台風が去るまでうちにいると良い。車を出すのもこれじゃあ危ないし、私の車は雨に弱いのでね」 急に台風情報を見るのがドキドキしてきた。台風が逸れて欲しいのか、それとも直撃して欲しいのか解らなくなってきた。 まるで小さな子供のように体育座りをしていると、その横に吉羅が腰掛けてきた。 吉羅のコロンがふわりと艶やかに香り、香穂子はいてもたってもいられないほどに、心臓が跳ね上がっていくのを感じる。 これで強く抱き締められたら、きっと卒倒してしまうだろう。 ビクビクと小動物のように怯えていると、吉羅に名前を呼ばれた。 「何をそんなに怯えている?」 「た、台風がかなり大型だから怖いなあって…思いまして…」 言葉遣いも声も怪しいこと極まりない。 香穂子は笑って誤魔化そうとしたが、上手くいかなかった。 「台風が怖いなら、私が側にいるから平気だろう?」 「それはそうなんですけれど…」 まさか恋愛下手の山猿のように緊張しているなんて、言えるはずもない。 硬くなりながら誤魔化すようにジュースを飲んでいると、吉羅は薄く笑いながらビールを飲む。 「…緊張している?」 「あ、あの、そ、そんなことは…」 「今夜はふたりで台風の様子でも眺めているか」 「あ、はい」 さり気なく吉羅は言うと、テレビに視線を向かわせる。 意識をしていると、きっと気付かれている。さらりとした大人びた態度がそれを悟らせる。 香穂子は自分の子供っぷりに溜め息を吐きたくなった。 「…台風の行方をふたりで見ていましょうか」 「それもまた、ガキのようだが…楽しいかもしれないからね」 吉羅は本当にリラックスした顔をしている。いつもクールで、感情を表に出さない吉羅のこのような表情を、きっと誰も知らないだろう。自分だけの大切な宝物のように香穂子は感じた。 「お母さんに、台風で動けないことを、連絡しておきます…」 「そうだな。ご心配を掛けてはいけないからね」 香穂子は頷くと、携帯電話を持って廊下へと出た。 何も疚しいことなどしていないというのに、何故かドキドキする。 台風だから帰ることが出来ないのは仕方がないことなのに、どうしてこんなに甘い疚しさがあるのだろうか。 携帯電話のメモリーを押す指が震えてしまう。 思い切り押して、コールを聴く。まるで死刑宣告を受けるような気分だ。 「…あ、お母さん、香穂子。台風で電車が止まってしまって帰れなくなってしまったみたい。うん、明日には帰れるから。だから今日は帰れないよ。はい、じゃあね」 台風が理由であったせいか、母親は意外なまでにすんなりと受け入れてくれた。 携帯電話を閉じた後、余りに緊張していたからか、大きな溜め息が出た。 電話が終わりリビングに戻ると、吉羅はクッションと毛布を用意してくれていた。 その傍らには、チェスや古びたオセロがある。 「そこに座ると良い。眠たくなったら横になると良いし、シャワーを浴びたければバスルームを使うと良い」 「あ、有り難うございます…」 香穂子は借りてきた猫のようにしゅんと小さくなって、何故か正座をする。 「まあ長くて楽しい、意外に短い夜になるかもしれないね…」 「そうですね」 緊張の余りに妙に礼儀正しい香穂子に、吉羅は苦笑いを浮かべているようだった。 ふたりで肩を並べながら、ひたすらテレビに映りこむ天気図を見ている。 「台風の日って、何だかわくわくしたり、怖いのに冒険しているような気分になったりしませんでしたか?」 「そうだな…。私は割と怖がりな子供だったから、いつも姉に慰められていたよ」 フッと優しいまなざしになったかと思うと、吉羅はこちらのこころが痛くなるほどの切ない視線を宙に放った。 香穂子は泣きそうになりながら、窓の外を見つめる。 吉羅のマンションにいると、台風が来ているなんて別世界の出来事のように思えてくる。それぐらいにしっかりとした最新の技術の粋が集められている。 「今は台風なんて感じない箱のなかにいるが、私の実家はかなり古びた洋館でね、必要以上に窓が揺れたりして怖かったよ」 「私の家も窓ガラスとかが震えたり、風の音がものすごく聞こえたりするんですけれど、それでも姉兄と一緒にわくわくしていましたよ」 香穂子はフッと笑うと、吉羅を見つめた。 台風の話をしていると子供の頃に戻ったような気分になり、少しずつではあるが甘い緊張もほぐれて来る。 ジュースを飲みながら台風中継を見ていると、不意にテレビが消え、照明が落ちた。 「き、吉羅さんっ! 停電ですっ!」 台風は平気ではあるが、闇は怖くてたまらなくて、香穂子は声をひっくり返らせた。 横にいる吉羅に咄嗟に抱き着いてしまう。がっしりと鍛えられた躰にすがりつき、小さな子供と同じように震える。 「台風は怖くなくても、停電は怖いのか?」 「…だって、く、暗闇じゃないですか!?」 香穂子の動揺ぶりに吉羅はくすりと笑うと、柔らかく抱き締めてくる。 強くもなく弱くもない抱擁に、息が止まってしまうほどに全身が甘く痺れた。 「何処かに貰ったままで放置をしていたアロマキャンドルがあるはずだ。取って来る」 「あ、わ、私も一緒に行きます」 香穂子がギュッと吉羅にしがみつくものだから、しょうがないとばかりに手をしっかりと握って立ち上がった。 吉羅とふたりでアロマキャンドルを探すのは、ロマンティックでどこかドキドキする。 幾つか棚を見れば、あっさりと見つかってしまった。 リビングにあるテーブルにそれを置いて火をつけると、瞬く間にロマンティック溢れる空間になった。 「君の怖いものをひとつ見つけられたのは…、実に有意義だ」 「もう。からかわないで下さい」 香穂子が拗ねると、吉羅はキャンドルの炎に優しい笑みを零した。 「…幼い頃、台風が怖くて私が眠れないと、必ず姉がヴァイオリンを弾いてくれた…。懐かしい想い出だ…」 「吉羅さん…」 「だから今夜は特別だ…」 吉羅は立ち上がると、鍵を掛けているクローゼットを開ける。そこからは紛れもないヴァイオリンが出された。 それを片手に吉羅は香穂子を抱き寄せると、横たえた。 膝枕をしてくれ、香穂子は更に緊張してしまう。静かに甘い緊張が躰を縛りつけ、どうして良いか解らない。 「君の緊張と恐怖がとけるように…」 吉羅はヴァイオリンを構えると、ゆっくりと透明な音色を奏で始めた。 なんて魂に問い掛けるような音を奏でるのだろうか。 音以外は何も感じられなくなる。 子守歌のように優しく綺麗な音色は、香穂子を落ち着かせてくれた。 台風も停電も全く気にならない。 今感じることは、自分がいる空間が世界で一番素晴らしい場所だということだけ。 いつしか優しい眠りが瞼いっぱいに満たされて、いつの間にか夢に支配されていった。 瞼に光を感じて、香穂子はゆっくり目を開いた。 時計を見るとまだ5時前。 「あっ! 台風っ!」 台風の行方が気になり、窓の外に視線を投げると、明るい空色と澄んだ紫色を乗せた大空のキャンバスが、光り輝いているのが見えた。 綺麗過ぎて、香穂子は言葉を失う。 「…起きたのか…?」 直ぐ横から眠そうな声が聞こえてきて視線を向けると、吉羅が躰を起こしていた。 乱れたシャツと髪が艶を振りまいて、香穂子は思わず生唾を飲む。 空とは対照的な美しさだったから。 「どうした?」 「そ、空が綺麗だなって」 香穂子の声に導かれるように吉羅が窓の外へと視線を向ける。 「…本当に…綺麗だな…」 ふたり揃って肩を並べて、暫くはうるわしの空を見つめる。 「最高の台風一過だな」 「そうですね」 ふたりは意見があったところでくすりと笑い合うと、唇を重ねる。 最高の台風一過。 |