今日は朝から温かい。 冬だということを忘れてしまいそうになる。 これなら朝練をしても、口煩くて優しい理事長からは、とやかく言われることはないだろう。 それはそれで寂しいのではあるが。 香穂子は朝から快適な雰囲気を感じながら、いつものようにヴァイオリンを奏でる。 朝から練習室を取る事も出来るが、やはり外で練習する爽快感は捨てがたいものがある。 朝から温かいのは嬉しいが、天気はそんなにも良くはない。 曇空で、今にも降り出しそうだ。 ついこの間は寒くて震えていたのに、今やかなり温かい。 こうして春に近付いて行くのだろうと、香穂子は感じていた。 これぐらいならば、風邪を引くなどとは言われないだろう。 ただし、あの缶入り汁粉がなくなるのは寂しい。 缶入り汁粉がお気に入りになり始めた矢先だから。 「日野香穂子! 精が出るな!」 「リリ! おはよう! 今日は温かいから、練習も頑張れそうだよ」 「それは良かったのだ。…まあ、あの男は、小言が言えないと寂しがるかもな」 「…え…?」 香穂子が聞き返すと、リリは惚けたように笑った。 「何でもないのだ〜!」 リリは誤魔化すように言うと、飛び回った。 「じゃあ、しっかり練習を頑張るね」 「おう! 我が輩も気持ち良く聞かせて貰うのだ!」 ひらひらと舞いながら、リリは嬉しそうにしている。 本当に元気になってくれて良かった。 香穂子はにっこりと笑いながら、ヴァイオリンに集中することにした。 吉羅はいつもよりも早く自宅を出た。 以前ならば考えられなかったことだ。 香穂子に逢いたいのかもしれない。 それは解ってはいるが、なかなか認めることは出来ない。 この自分が、一回り以上離れている女の子に恋をするなんてことは、有り得ないと思っていたからだ。 吉羅はそう戒めながらも、毎日ときめいている自分がいることも解っている。 香穂子と逢うだけで、話すだけで、仕事の捗り方が随分と違うのだ。 吉羅は、それを解っていながらも、なかなか認めることが出来なかった。 いつもは寒さにかこつけて話をしているが、今日は何をかこつけて話をしたら良いのだろうか。 こんなにも温かいと、香穂子に声を掛けるきっかけがない。 何て事なのだろうか。 香穂子へのきっかけを探しているなんて、今までは有り得ない事だった。 吉羅は、既に恋をしていることを認めているくせに、受け入れない自分に苦笑いしながら、車を横浜へと走らせる。 認めているのに、認められない。 これが大人の複雑さだというところだろうか。 恋をしたり、何かを好きになる純粋さなど、とうの昔に捨て去ったと思っていたのに、こうしてまたむくむくと顔を出してきている。 このようなことは、高校生以来なかったと言うのに。 大人でクールでいなければならない自分と、少年のように純粋な気持ちでいる自分。 吉羅は、せめぎあう気持ちを持て余しながら、心を学院へと飛ばしていた。 ヴァイオリンの練習に集中していると、頬に冷たい雫を感じた。 少しずつ雫の数が増えてくる。 雨だ。 気付いて、ヴァイオリンを片付けようとした時だった。 「雨なのに、君は何をやっているのかね!?」 朝練名物になりつつある、吉羅の厳しい声が聞こえてくる。 それを聴きながら、香穂子は、嬉しいと感じてしまう。 本当に、吉羅限定のマゾなのかしらと、思ってしまうほどだ。 傘をかけられて、香穂子は吉羅を見上げた。 「有り難うございます」 吉羅のさり気ない優しさが嬉しくて、ほわほわとした温かな気持ちを抱いた。 「…いくら今日がいつもよりは温かいといえ、そのように濡れるのは無謀だとは思わないのかね? しかもヴァイオリンを雨に濡らすなんて、最もやってはいけないことぐらい、君も解ってはいるだろう?」 厳しい口調で言われて、香穂子はシュンとなってしまった。 なのに嬉しいのは何故だろうか。 恋をしているから。 それ以外にはないというのに。 吉羅に誰よりも恋をしているからだ。 「素早くヴァイオリンを片付けたまえ」 「はい」 香穂子はヴァイオリンを慌ててケースに片付ける。 吉羅が直ぐに傘を差し出してくれたから、香穂子のヴァイオリンは、余り濡れなかった。 「…有り難うございます」 ヴァイオリンを片付けると、吉羅はいつものように冷たい表情を香穂子に向けた。 「日野君、雨は酷くなりそうだ。屋内で練習をするんだ。練習場所を貸そう。来なさい」 「はい、有り難うございます」 吉羅に着いていく。 吉羅が何処の練習室に連れていってくれるのか、楽しみになった。 吉羅が連れていってくれたのは、理事長室だった。 「ここならば、授業が始まるまでの少しの間ならば、使って構わない」 「有り難うございます。私の音がご迷惑ではありませんか?」 「今は仕事の準備だけだ。構わない」 「有り難うございます」 吉羅が理事長室を貸してくれたのは有り難い。 もう少しだけ練習をしたかったからだ。 短くても良いから、今は沢山練習をしたかった。 香穂子は、理事長室の端に陣取るとヴァイオリンを奏で始めた。 アンサンブルコンサートとオーケストラのコンミス。 どちらもヴァイオリンをしっかりと弾けるようになっていなければ出来ないものだ。 だからこそ、今はしっかり頑張らなければならない。 少しでも長く練習をしたかった。 香穂子は、吉羅に聴かれるからと構える事なく、ただ集中して前向きに頑張る。 いつしかヴァイオリンの世界に集中していた。 雨に感謝することなんて、吉羅には今までないことだった。 大雨には弱い車に好んで乗っているからだろう。 今日は雨がきっかけになって、香穂子と話をするきっかけを、ごく自然に持つ事が出来たのだから。 香穂子がヴァイオリンに集中している。 その横顔は、なんて美しいのだろうかと、見惚れずにはいられない。 敬愛に似て感情を抱きながらも、何処か寂しい気分にもなった。 香穂子の世界には、ヴァイオリン以外は存在しないように感じられたからだ。 まるでヴァイオリン以外はいらないと言っているかのようだった。 それが切なくて妙に寂しい。 同時に、香穂子の温かい音色を五感で感じる事が出来るのが、とても嬉しく感じられた。 なんて幸せな温かな朝なのだろうか。 雨の朝はあんなにも嫌いだったのに、今はとても素晴らしいものに感じている。 これも香穂子のマジックなのだろう。 吉羅に最も効果的なマジックだ。 香穂子のマジックは、どんな魔法使いのものよりも強力なのだ。 吉羅は、もっと近付いて、もっと近くで、香穂子が奏でる音色を感じていたかった。 「日野君、そろそろ時間ではないのかね?」 吉羅の言葉にハッとして、ヴァイオリンの練習から、香穂子は心を切り替える。 「あ、はいっ! 有り難うございました。お陰様で助かりました」 香穂子はヴァイオリンを片付けた後、吉羅に頭を下げる。 「では、授業に向かいたまえ」 「はい、失礼します」 香穂子は笑顔で言うと、理事長室から出ようとした。 「日野君」 声を掛けられて、香穂子は振り返る。 「今日の演奏は悪くなかった」 吉羅はいつものように感情なく言うが、それでも嬉しかった。 「はい、有り難うございます」 香穂子はときめく余りにドキドキしながら、教室へと向かう。 恋する乙女のエネルギーが満タンになったのは、言うまでもなかった。 もちろん、恋する男のエネルギーも…。 |