*名も知らぬ感情*


 初めて見た時には、何にも思うことはなかった。
 だが、奏でる音を聴いた瞬間、魂を揺さぶられた。
 こんなにも温かくて優しい音色を聴いたのは、久し振り。
 このような音色を奏でることが出来るのは、今まで一人しか知らない。
 それは姉。
 吉羅美夜だけだ。
 懐かしくも何処か切ない音色に、吉羅は直ぐにこころを奪われた。
 音楽に情熱を傾けて、音楽しかいらないなどと思うところは、姉と全く同じだ。
 音楽中心に世界が回り、音楽がなければそれこそ世の中の総ての光を失ってしまうのではないかと思うところも、同じだ。
 音楽への真っ直ぐな情熱や瞳が、姉と同じだった。
 姿形ではなく、音楽に対する情熱が、ふたりともとてもよく似ている。
 ヴァイオリンさえ弾けていればそれで幸せだと言わんとするところまで。
 音楽に触れている時の瞳の色すらも似ている。
 だから気になってしまった。
 同時に、音楽以外のものを捨ててまでも熱中するところを見ると、姉と同じ末路を辿るのではないかと思う。
 だからこそ、誰かが守ってやらなければならないと、思っていた。
 誰かがコントロールしてやらなければ、姉のようになると、吉羅は思わずにはいられない。
 だから厳しい言葉を香穂子には言うのだ。
 香穂子の為だ。
 だが、最近、切ない表情をしているのが気になる。
 特に吉羅に怒られている時に、それがよく出ていると思っていた。

 今日は日野香穂子の定期考査の日だ。
 理事長室に入ると、日野香穂子は丁寧に挨拶をした後、いつものようにヴァイオリンを奏でてくれる。
 今日は何処かこころが浮ついているとしか思えない程の演奏で、吉羅は目を神経質気味に細めた。
 最後まで聴いても結果は見えている。
 このような演奏をしていては、出来もたかがしれていると吉羅は思った。
「…日野君、そこまでだ」
 吉羅の冷酷で硬い声が響き渡ると、香穂子はヴァイオリンを静かに置いた。
「…この一週間、君は何をしていたのかね? 全く成長をしていない…。それどころか、先週よりも悪くなっていると私は思うが、違うかね…」
「…理事長…」
 香穂子は唇を噛み締めて俯く。
 自分でも解っているのだろう。
「すみませんでした」
 いつもよりは少し低い鼻声が耳に障り、吉羅は香穂子を睨み付けるように見つめた。
「日野君、…君は…、風邪を引いているのではないかね? 体調管理もヴァイオリニストとしての重要なことだと、私は君に言わなかったかね?」
「…大丈夫です。風邪は寝たら治りますから」
 明るく笑いながらあっけらかんと言う香穂子が気に入らない。
 風邪と間違われる重要な病も多いというのに、どうしてこんなにもあっけらかんとしているのか。
「とにかく、休養をしっかりと取るんだ。風邪を軽々しいものだと考えてはいけない。健康管理が出来ないヴァイオリニストは最低であることを、肝に銘じておくことだ」
 吉羅は冷たく言い放つと、香穂子を鋭く睨み付ける。
 完全に自分の不注意だと解っているせいか、香穂子はしょんぼりと俯いている。
「君のことだ、どうせ外で練習している時に、夢中になって寒さを忘れていたりするから、こういうことになるのではないかね?」
「…練習室はいっぱいのことが多いですし…、私は音楽科の皆のように試験とかがないから、練習室を独占するのも悪いと思って…。それにヴァイオリンを弾けるなら何処でも良いんです。弾ける環境があれば、それで。練習しているというよりは、本当に楽しんでやっているので。ヴァイオリンを弾いているだけで、嬉しいんです。本当に…」
 香穂子らしい言葉に、吉羅は溜め息を吐いた。
 本当に何処まで姉に似ているのかと思う。
「日野君、今日は練習室の予約は取れているのかね?」
「…いいえ…。これからまた中庭で練習しようかと思っていたところです…」
 香穂子はバツが悪そうに言うと、怒られる準備からか躰を小さくさせる。
「…しょうがない。君の風邪がこれ以上悪化されても困る。今日のところはここで練習しなさい」
 吉羅は妥協をするかのように言うと、香穂子を見つめた。
 香穂子は驚いたように吉羅を見たが、その後は恐る恐るの笑顔になる。
「良いんですか…?」
「ああ。存分に練習すると良い。私はその間仕事をしているが、気にはしないように」
「有り難うございますっ!」
 香穂子は本当に嬉しそうに笑うと、吉羅に何度も頭を下げる。そんなことをされなくても構わないのに、香穂子は律義にも頭を下げた。
 きっとヴァイオリンの練習場所として、温かな場所を手に入れたから、それが嬉しくてしょうがないのだろう。
「有り難うございます。練習しますね」
香穂子は鞄から楽譜を取り出すと、今、練習している“ジュ・トゥ・ヴ”の練習を始めた。
 甘く情熱的な恋の歌。
 17の小娘が弾きこなせるような内容の曲ではない。
 だが、日野香穂子は、清らかさと温かさを音に加えて、全く誰とも違った“ジュ・トゥ・ヴ”を作りこんでいる。
 無意識にそれをやっているのだから、天賦の才能があるのだろう。
 吉羅はこの上なく心地好いBGMだと思いながら、仕事に集中した。
 まるで吉羅が見守ってくれる女神がそこにいるような気分だった。

 冬の日暮れは早い。
 5時を過ぎれば、外は真っ黒になっている。
 流石に下校時間になり、香穂子はヴァイオリン練習を止めた。
 それと同じタイミングで、吉羅も仕事を終えた。
「理事長、下校時間なので今日はここまでにします。練習場所を提供して下さいまして、有り難うございました」
 香穂子は丁寧に礼を言うと、頭を下げた。
 香穂子が理事長室を出て行こうとしたところで、吉羅は声を掛ける。
「日野君、私も丁度仕事を終えたところだ。どうかね、夕食でも一緒に。軽く食べて、君を家まで送ろう」
「有り難うございます。嬉しいです。是非、連れて行って下さい!」
「解った。少し待ってくれていたまえ。直ぐに支度をする」
「はい」
 香穂子はソファにちょこんと座ると、楽しそうに吉羅を見つめている。
 その笑顔にドキリとする。
 香穂子の笑顔は、吉羅のこころを確実に温めてくれている。
 それがとても心地好い。
「待たせたね、行こうか」
「はい。有り難うございます」
 ふたりで並んで職員用の駐車場へと向かう。
 ちらりと横目で見る香穂子は、本当に嬉しそうに微笑んでいる。
 その微笑みが何よりも可愛い。
 吉羅の視線に気付いてはにかんだ光を浮かべる瞳が可愛い。
 吉羅は、未だかつてない胸の温かさと、どこかきゅんとする甘酸っぱさを感じる。
 今まで知らない感覚。
 それを香穂子がくれる。きっとかけがえのないものなのだと、吉羅は本能で感じていた。
 そばにいるだけで幸せをくれる相手なんて、そうそういるものではない。
 吉羅は車の鍵を開けて、先に香穂子を助手席に乗せる。
「どうぞ」
「有り難うございます」
 香穂子が微笑むと、吉羅自身もつい微笑んでしまいたくなる程に幸せな気分になる。
 笑顔だけでひとは幸せになれるのだと、初めて知った。
 吉羅は運転席に乗り込むと、フッと微笑む。
 隣にいてくれてようやく解った。
 香穂子に恋をしている。
 恋をした理由は、姉に似ているからではない。
 真っ直ぐで温かで情熱的なこころが魅力的だったからだ。
 吉羅は恋心を自覚しながらハンドルを握る。
 恋をする奇跡を与えてくれたアルジェントに、少しは感謝しても良いような気がした。



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