*似たもの同士*


 

 あのひとはいつも仕事ばかりをしている。

 綺麗な大人の女性といるのを見掛けたことはあるが、女性よりも仕事を重視しているようにしか見えない。

 実際にそうなのだろうと思ったり、そうじゃないと思ったり。

 いつも揺れてしまうのがホントのトコロ。

 

 自分のような子供は相手にしないだろうと思いながら、一方でその隙間に入れたら…、等と、虫の良いことを考えてしまっている。

 今日もギリギリまでヴァイオリンの練習をする。

 土曜日だからこそ、練習をするチャンスだ。

 少しでも上手くなりたい。

 香穂子はもがくような思いで、ヴァイオリンの練習を続けた。

 胸が締め付けられるような苦しさを感じながら、練習をする。

 同時にその時間が楽しい。

 ヴァイオリンに恋をしていると言っても良かった。

 それと同じようにひとに恋をしているのだけれども。

 日暮れ時まで、香穂子は臨海公園で練習をする。

 そろそろ公園で練習をするのを止めなければならない。

「少しは上手くなれたかな?」

 香穂子は深呼吸をして気持ちを整えると、ラストの曲を奏でる。

 今日の練習の総仕上げといったところだ。

 明日からまた気合いを入れて、練習しなければならない。

 少しでも、他のひとたちとの差を縮めたかった。

 香穂子がヴァイオリン演奏を終えると、拍手が聞こえた。

 振り返ってみると、そこには吉羅暁彦が立っている。

 相変わらずクールな表情をしている。

「悪くはなかったよ、日野君」

「吉羅理事長、有り難うございます」

 吉羅が聴いてくれていたのが嬉しくて、香穂子は笑顔で頭を下げた。

「休みなのにヴァイオリンの練習とは、精が出るね。良いことだ」

 吉羅はビジネスライクに淡々と話してくる。

「少しでもみんなに追いつきたいんです。溝を埋めるのは、みんな以上に努力をしなければいけないですから」

「…そうだね、君はヴァイオリニストを目指すには、“遅れてきた子供”であることは、間違いないからね」

 吉羅は痛いところをストレートに言ってくる。

 反論が出来ない以上は、笑っているしかなかった。

「理事長も今日はお仕事ですか」

 きちんとビジネスライクでクールなスーツを着こなしている。

 どこから見ても、隙がないビジネスマンのようだ。

 香穂子はつい見惚れてしまう。

 大人の男性らしい落ち着いた雰囲気にドキドキしてしまった。

 それを誤魔化すために、香穂子はわざと笑顔になる。

「休日までお仕事なんてご苦労様です。理事長は仕事が恋人みたいですね」

 香穂子の言葉に、吉羅は意外そうに驚くような表情をした後、苦笑いを浮かべた。

「確かにね。今の私には、仕事が何よりも優先されるべきことではあるけれどね。だが、君も同じではないのかね? 君も明らかにヴァイオリンを優先にしているからね。君のほうは、本当にヴァイオリンが恋人といった感じだろう」

 確かに。

 吉羅の言う通りだ。

 ヴァイオリンが恋人だというのは、否定することが出来ない。

 密かに恋をしている目の前のひとと、ヴァイオリンは比べることが出来ないぐらいに、存在が大きい。

 吉羅が見守ってくれているから、ヴァイオリンを頑張れる。

 ヴァイオリンがそばにあるからこそ、恋をしていられる。

 香穂子にとっては掛け替えのないものだ。

「ヴァイオリンの練習をしていると、切なくて苦しいのに、また甘くて幸せなんですよ。まるで恋をしているみたいですね」

「じゃあ、君にとってのヴァイオリンは、まさに“恋人”ということかな?」

「そうですね」

 香穂子は素直に認めると、甘く笑って微笑む。

「理事長にとってのお仕事も、同じようなものですよね?」

 香穂子の答えに、吉羅はフッと笑うだけだった。

「理事長は“女性よりも仕事”っていうイメージがありますよ」

 香穂子がさり気なく言うと、吉羅はほんの少しではあるが困ったような表情をした。

「では、お互いに休みを返上して頑張ったということで、食事にでも行かないかね?」

 吉羅の微笑みに、香穂子もしっかりと頷いた。

 こうしてさりげなくでも良いから、吉羅から誘って貰えるのはとても嬉しかった。

「では行こうか。車はそこに停めてあるから」

「はい」

 夕方からのお誘い。

 大人になったような気分で、少しだけドキドキする。

 香穂子は、幸せな甘酸っぱさを感じながら、吉羅に着いていった。

 

 吉羅はベイブリッジを渡り、築地まで連れていってくれる。

 本物のデートをしているようで、香穂子はほんわかとした幸せを感じていた。

 吉羅ともし付き合うことが出来たら、このように大切にして貰えるだろうか。

 香穂子がヴァイオリンと吉羅を天秤に掛けられないように、吉羅もまた、仕事と恋を同じ土俵には上がらせないのだろう。

 こうして大切にしてくれていることを見せてくれたら、それだけで幸せだと、香穂子は思った。

 

 吉羅はのんびりと出来るようにと、カジュアルな雰囲気のすし店を選んでくれた。

 こうして寿司をつまみながら、何気ない話をするのが、香穂子には幸せに思えた。

 吉羅とは主にクラシックの話題で話が進む。

 こうしてふたりで一緒にいられるだけで幸せだった。

「やっぱりお寿司を食べると幸せですね」

「これで明日からもヴァイオリンを頑張れることが出来るかね?」

「勿論ですよ。これでめいいっぱい頑張れます。理事長は…、無理せずにお仕事を頑張って下さいね」

「ああ。有り難う。私も良い気分転換が出来たから、明日から頑張ることが出来るよ」

「余り無理してはダメですよ。身体が大切ですから」

「大丈夫だ。そのあたりのコントロールはぬかりはないからね」

「流石!」

 吉羅の体調コントロールを見習わなければならない。

「理事長を見習って頑張らないといけませんね」

 香穂子が微笑むと、吉羅は頷いてくれた。

 

 お腹いっぱいに寿司を食べた後、吉羅は再び横浜まで送ってくれる」

「吉羅理事長、送って頂いて有り難うございます。とっても楽しくて、美味しかったです」

「では、明日からはまたヴァイオリンをしっかりと演奏することが出来るね」

「はい、頑張ります」

 香穂子はここまで言った後、ふと切なくなる。

 吉羅は、恋人にはこうして一緒に過ごさなくても良いのだろうか。

 それが気になってしまう。

「…理事長…、私で良かったんでしょうか?」

「何が?」

「今夜、過ごす相手が…。きっと過ごしたかった相手がいるんじゃないかって…」

「私が今夜一緒に食事をしたかったのは君だ。君こそ、私で良かったのかね?」

 吉羅はキッパリと言い切った後、少し意地悪な視線を向けてくる。

 それが憎らしい。

「理事長と過ごしたかったです」

 香穂子はほんのりと頬を赤らめると、少しだけ俯いてしまう。

「それは良かった」

 吉羅はフッと微笑むと、更に続ける。

「君は男性と過ごすよりも、ヴァイオリンといるほうを取りそうだからね」

「理事長こそ、女性よりも仕事を取られるんじゃないですか?」

 香穂子がやり返すと、吉羅は更に微笑む。

「…だったら…、私達は似た者同士、気が合うということだね。長い付き合いになりそうだ…」

 吉羅の言葉に、香穂子は思わず耳まで真っ赤にする。

「…それは…、ど、どういうことでしょうか?」

 香穂子がドキドキしながら訊いてみると、吉羅は僅かに口角を上げる。

「答えが分かるまで考えてみることだね」

 吉羅の甘く意地の悪い声に、香穂子はきょとんとした。

「考えれば…分かるのでしょうか…?」

「多分ね。君がきちんと答えてくれるまで楽しみにしていよう」

 吉羅の言葉に、香穂子は小首をかしげる。

 いつか答えが分る、

 それまではそんなには時間が掛からないと感じていた。



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