*放課後Date*


 一週間の仕事をやり終えた土曜日の午後は、疲れを癒すために、ヴァイオリンの音色が聴きたくなる。
 ヴァイオリンの音色はどんなものでも良いというわけではない。
 いつも笑顔で目標に向かって走り続ける少女の音色でなければ、吉羅は癒されない。
 いくら世界最高のプロであったとしても駄目なのだ。
 あの温かくて心に染み透る柔らかな音色でなければ。
 車が臨海公園前に差し掛かると、ついスピードを落としてしまう。
 自分でもどうしてかは解っているつもりだ。
 あの少女が奏でるヴァイオリンの音色をじっくりと聞きたいからだ。
 あんなに優しくて温かい上品な音色は、二つとないと吉羅は思っている。
 だからあの音色を聴くために、つい臨海公園に車を停めてしまう。
 恐らくはそこでヴァイオリンを奏でているだろう。
 今日も。
 吉羅は、いつも香穂子がヴァイオリンを演奏している場所へとゆっくりと歩いていく。
 ヴァイオリンの温かで優しい音色が聞こえてホッとする。
 あの音色を聴かなければ、切ない気分になってしまうから。
 あの音色が、吉羅をとても心地好い気分にさせてくれる。
 あの音色を独占出来ない土曜日の午後は、何だかとてもがっかりしてしまうのだ。
 その理由が何なのか。
 恐らくは本質的なものは解ってはいるが、それが何かを認めたくはないのだ。
 吉羅が近付いてきたことも気付かずに、相変わらずヴァイオリンの練習に夢中になっている。
 その姿は本当に美しかった。
 じっと見つめていたい。
 この甘くて切ない想いが何かを充分に解っているつもりだから。
 この想いが、香穂子のヴァイオリンをより美しく、吉羅の心に響かせていることを、解っていた。
 ヴァイオリンの演奏を終えたところで、吉羅は拍手をする。
 その音に気付いて、香穂子が瞳を開けた。
「理事長…!」
 香穂子の笑顔が太陽のように輝いて、吉羅に向けられる。
 その笑顔が愛らしくて、吉羅は思わず目を細めた。
「練習に精が出るね」
「頑張らないと、みんなの背中すら、私には見えませんから」
 香穂子は唇を一文字にキリリと締めると、背筋を質す。
 香穂子は確実に差を縮めてきている。
 それは明らかだ。
 追い掛けられるものが少しでも努力を怠れば、それまでの話なのだ。
 その差は少しずつ縮まり、気が付いた時には、愕然とするほどの差が出てしまうのだ。
 香穂子が彼らの背中を捉えて、抜き去ってしまうのは時間の問題だろうと、吉羅は考えていた。
 本当におちおちしていられないことを、気付かない者は、一流にはなれないだろう。
「…日野君、今から時間はあるかね? ランチとドライブに付き合わないか?」
 吉羅がいつものようにクールに言うと、香穂子は明るい笑みを浮かべる。
「有り難うございます! 嬉しいです! ちょうどお腹がペコペコだったんです」
 香穂子は屈託なく言うと、眩しいほどに無邪気な笑顔を吉羅に向けた。
「では決まりだね。行こうか」
「はいっ!」
 香穂子は鼻歌交じりで着いてくる。
 その様子が妙に可愛らしかった。

 吉羅は、香穂子がリラックス出来るように、ゆっくり食事が出来るようにと、車を八景島方面へと走らせる。
 魚介類をふんだんに使った美味しいイタリアンレストランがあるのだ。
 香穂子に前向きに頑張って貰うためのサポートなら、どんなことでもしようと思っていた。
 イタリアンレストランに到着し、席に座るなり、香穂子はニコニコと笑っていた。
「有り難うございます。本当に嬉しいです」
 香穂子はいつも素直に礼を述べてくれる。
 気取ったところは少しもなくて、そこがまた気に入っているところだ。
 本当に可愛らしかった。
 今まで気取った女性ばかりだったが、香穂子にはそのようなところがなくて、吉羅には好ましかった。
 香穂子は、パスタを食べたり、カルパッチョサラダを食べたりする度に、本当に笑顔になり、何度も「美味しい」と言ってくれる。
 その素直な反応が、吉羅にとってはどれほど嬉しいものだということを、恐らくは知らないだろう。
 香穂子をサポートするために、息抜きを兼ねて食事に連れて行っているが、本当は自分が一番癒されていることを、吉羅は知っていた。
「デザートはティラミスですよっ! すごく嬉しいです!」
 香穂子は今にも踊り出しそうな勢いで言う。
 香穂子の反応を見ていると、こちらまで嬉しくなった。
「日野君、後でスウィーツが美味しいカフェに行こうか」
「え? 良いんですか!? 本当に有り難うございますっ!」
 香穂子はまた鼻歌交じりに食べる、
 なんて可愛いのだろうかと、吉羅は思わずにはいられなかった。

 …全く、私は、彼女に溺れているらしい…。

 吉羅はそんな甘い感情を抱かずにはいられなかった。

 吉羅は自分自身に苦笑いを淡く浮かべながらティラミスを食べる。
 いつもよりも幸せで甘ったるい味がしたような気がした。

「日野君、折角、ここまで来たのだから、水族館に寄っていかないかね? 別腹かもしれないが、少しはお腹に余裕を持たさなければならないだろう?」
「有り難うございます。水族館も大好きですから良い気分転換になりそうです。また、これでヴァイオリンを頑張ることが出来ますよ」
「それは何よりだね」
 香穂子が花のような笑顔を向けてくれるものだから、吉羅もつい柔らかな笑みを浮かべる。
「じゃあ行こうか」
「はいっ!」
 吉羅は香穂子と一緒に、水族館へと向かった。

 どの魚も興味深く楽しそうに見ていたが、特に香穂子がじっくりと見ていたのは、ペンギンだった。
 まるで憧れを抱くかのように、つがいのペンギンを見つめている。
「日野君、君はペンギンが好きなのかね?」
「アデリーペンギンは別格です!」
 香穂子は憧れに満ちた声で言う。
「どうして?」
 吉羅は不思議に思い、香穂子に訊いてみた。
「…アデリーペンギンは、生涯で、この相手と決めた相手と一生、一緒に過ごすんです。ひとりの相手とずっと一緒にいられるなんて、ロマンティックではありませんか?」
 香穂子はうっとりと見つめながら呟いている。
きらきらと輝いていて、本当に綺麗だと思う。
「“共に白髪が生えるまで”だなんて、とても素敵ではありませんか…? 私の憧れなんです」
 香穂子はまるで夢を見ているようなロマンティックな表情をしている。
 本当に美しい。
 そして香穂子が夢見ているそばに、自分がいることが出来ればと思わずにはいられなかった。
 吉羅の甘いまなざしに気付いたのか、香穂子は僅かに頬を赤らめさせた。
「…あ、あの、子供染みたことを言いました…ね…」
 香穂子の言葉に、吉羅は首を横に振った。
「いいや。素敵なことだと思う」
 傍らに自分がいれば。本当にこんなにも素敵なことはないだろうと思った。
「アデリーペンギンのように素敵なひとはいるのかね…?」
吉羅は内心緊張しながら言う。
 一瞬、香穂子ははにかんだような笑みを浮かべて吉羅を見つめてきた。
 吉羅は答えをあえて訊かずに、ただ笑みを返す。
「日野君、行こうか。美味しいスウィーツを食べに行こうか」
「はいっ!」
 吉羅はさり気なく香穂子の手を取る。
 スウィーツに負けない甘くて素敵な時間が、今、始まる。



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