*春だから*


 今日から春。

 だなんて誰が決めたのだろうかと、香穂子は思う。

 まだまだ寒くて寒くてしょうがないというのに。

 今日から心機一転すると良いと聞くが、それは本当なのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていた。

 

 一年で一番寒い時期が、春の始まりだなんて信じられない。

 そんなことを考えながら、香穂子はヴァイオリンの練習に精を出していた。

 練習室は温かくて良いが、こうして順番があぶれてしまった以上、外で練習をするしかないのだ。

 元々、かなり丈夫で、健康優良児であるから、余程のことがない限りは、風邪を引いたりはしないのだが。

 香穂子はマフラーをぐるぐる巻きにして、屋外での練習に臨んだ。

 一旦、集中してしまえば、寒さなどは全く気にならなくなる。

 香穂子は何度も何度も繰り返し練習を重ねる。

 寒波がきているせいか、外はかなり寒い。

 そのせいで、香穂子と同じように屋外練習をしていた生徒たちが、直ぐにいなくなってしまった。

 確かに今日はかなり寒い。

 だが、ヴァイオリンを演奏する指先は、決して悴むことはなかった。

 それだけ動かしていたからだろう。

 香穂子はヴァイオリンを置いて、軽く深呼吸をした。

 すると息がかなり白くなっている。

 その様子を見ながら、今日はかなり寒いことを実感していた。

 

 今日はかなり寒い。

 屋外で練習している生徒は殆どいない。

 まさか日野香穂子は練習してはいないだろうと思っていたが、しっかりと練習していた。

 しかもマフラーをしただけの薄着だ。

 こんな格好をしていれば、確実に風邪を引いてしまうだろう。

 吉羅は、呆れるを通り過ぎて、怒りすら感じていた。

 健康を大切にしないなんて、これほど愚かなことはないということを、日野香穂子は解っているだろうか。

 吉羅は苛立ちを感じた。

 健康であることが、何よりも大切なことだというのに。

 吉羅は溜め息を吐くと、理事長室を出た。

 日野香穂子が大事なんかじゃない。

 風邪を引かれて、アンサンブルや春のコンサートに支障が出るのが困るのだ。

 本当にそれだけなのだ。

 他意はない。

 学院のためだ。

 自分が心配する余りではない。

 吉羅は強く自分にそう言い聞かせた。

「全く、手間がかかる生徒だ…」

 吉羅は足早に、香穂子がいる場所に向かった。

 

 寒くはなってきたが、まだまだ練習をしたかった。

 アンサンブルを成功させるためにも、更には春のコンサートを成功させるためにも、頑張らなければならない。

 前向きにヴァイオリンを練習したいと思った。

 そして少しでも皆との差を縮めたかった。

 香穂子は何度も練習をする度に、少しずつではあるが、差を詰められているのではないかと思う。

 そうなるために、ただ前向きにやるしかなかった。

 ヴァイオリンを弾き終えてホッとした時に、背後から殺気を感じた。

「君はいったい何をしているのかね!?」

 振り返ると、いつも以上に厳しい顔をした吉羅が立っていた。

「…吉羅さん…」

「日野君、こんな寒い日に外で練習をするなんて、君は一体、何を考えているのかね!? 体調管理もコンミスの大切な仕事だと、私は言ったはずだが?」

 吉羅のまなざしは震え上がってしまうほどに怖くて、香穂子は思わず唇を噛み締めた。

「…解っています。ですが練習室が取れなくて、だけれどどうしても練習したかったんです」

 香穂子を瞳に力を込めて吉羅を見た。

 しかしそれぐらいでは、吉羅に敵うはずもなかった。

 吉羅のまなざしは凍て付いてしまうかと思うほどに冷たかった。

「…だったら、何故、私に言わないんだ」

 吉羅は低い声で、香穂子を諭すように言う。

「…それは、特別扱いが嫌なんです…。私…、ただでさえ人一倍出来ないのに、皆さんによくして貰っているから…」

 香穂子は魂から声を絞り出すように言う。

 本当にそう思っているのだ。

 皆に助けて貰って、何とかこうしてヴァイオリンを持っている。

 香穂子は切なくて泣きそうになった。

 練習ぐらいは自分の力で何とかしたかった。

「…君のサポートをいつでもすると伝えた筈だ。君は学院の特命事項を行っている。サポートを受けても当然なぐらい頑張っていると思うがね」

 頑張っている。

 香穂子の努力を吉羅が認めてくれたのは、これが初めてだ。

 嬉しいというよりは驚きが先だった。

 思わず吉羅を見たが、表情は相変わらずクールなままだった。

「日野君、誰も外で練習をするなとは言わない。しかし君は、迂闊過ぎる。そんな薄着で風邪を引くだろう」

「…あ…」

 寒いが全く気にならなかった。

 それだけヴァイオリンの練習に熱中していたということだろう。

「ヴァイオリンに熱中し過ぎて、気付きませんでした。いつもよりも寒いことは解っていたんですが、ヴァイオリンを弾くことに夢中で、楽しくて…つい」

 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅は更に苦々しい表情になった。

「だから君は迂闊なんだよ。来なさい」

 吉羅はピシャリと言うと、まなざしで“着いて来るように”と指図する。

 流石に冷徹な理事長閣下に命令されてしまうと、香穂子も従わずにはいられなくなる。

 仕方がなく、香穂子はトボトボと吉羅の後を着いていった。

 香穂子は、吉羅に怒られるのではないかと、内心は気が気ではなかった。

 こっそりと着いて行くと、吉羅は理事長室へと向かっていた。

 行き先を考えても、こっぴどく怒られるのが目に見えている。

「ここに入りたまえ」

「はい」

 吉羅はクールでスマートに理事長室に入れてくれた。

「ここならば防音になっている。誰にも見られないから、思う存分、ヴァイオリンを弾きたまえ」

 吉羅はクールに言うと、立派な理事長席に着いて、再び仕事を始める。

「で、ですが、理事長のお仕事の邪魔になるのではないですか?」

 香穂子が恐縮しながら言うと、吉羅は冷酷に睨み付けてきた。

「やるか、やらないか、どちらかね!?」

 低いよく通る声で言われてしまうと、途端に香穂子は飛び上がる。

「す、すみませんっ!」

 香穂子は深呼吸をすると吉羅を見た。

 理事長なりに気を遣ってくれているのだ。

 これは受けなければならないと思う。

「有り難うございます。では遠慮なき使わせて頂きますね」

「ああ」

 香穂子は、そこに吉羅がいることを忘れてしまうほどに、ヴァイオリンに集中することにした。

 

 香穂子のヴァイオリンを聴いていると最高のBGMになると思う。

 確実に成長している。

 これほど上達の早いヴァイオリニストを見るのは初めてだ。

 吉羅はいつしか心地好く聴いていた。

 

 ヴァイオリンを夢中で弾いて一息吐いたところで、吉羅に声を掛けられた。

「休憩したまえ。頂いた甘酒だ。躰が温まる」

「有り難うございます」

 まさか甘酒を出して貰えるなんて思ってもみないことだった。

「いただきます…」

 吉羅が出してくれた甘酒は、ホッとするほどに甘くて温かい。

 ぽかぽかしたご褒美を貰った気分だった。

「美味しくて…温かいです…」

「それは良かった。しっかりと飲んで、躰を温めて帰りなさい」

「はい」

 吉羅の気遣いが嬉しくて、幸せであると同時に、胸がときめく。

 先ほどまでかなり寒いと思っていたのに総てが温かい。

 香穂子は、一足先に春が来たのではないかと思う。

 今日は春の始まり。

 香穂子の恋と心にも、暦通りの春がやってきた。




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