*甘い放課後*


 終業を知らせるチャイムが鳴くなり、香穂子は急いで応接室へと向かった。
 まだ間に合うはず。
 吉羅は応接室で、学院の事務書類と格闘をしているはずだ。
 その隙間で良いから逢いたい----多忙な年上男を恋人に持ってしまうと、中々逢えないのが辛い。
 相手は社会人でしかもかなりの多忙。それに比べて自分はただの女子高生に過ぎない。
 セレヴなんて言われる部類の人種である吉羅と、普通の女子高生である自分のギャップはあまりにも大きい。
 セレヴな社会人と女子高生----おとなとこども。
 だから「逢いたい」だなんて我が儘なんて言えない----そんなことを言ったら子供だと、我が儘だと言われてしまいそうだから。喉の奥まで出かかって、いつも言えない。
 吉羅が自分など置いて、いつかどこかへ行ってしまうのではないかと思うだけで、こころが締め付けられて、おかしくなってしまうから。
 だから言えない-----いつも傍にいてだとか、いつも見つめていて。なんて…。
 足早に応接室を目指して歩く。自分でもこころが逸り殺気立っているのが香穂子にも解った。
「おい、日野」
 声を掛けられて振り返ると、土浦が呆れかえるようにこちらを見ていた。
「落としたぞ、楽譜。気付かないぐらいに急いでいたみたいだが」
「有り難う! 土浦くん!」
 香穂子は力を抜いて笑うと、ゆっくりと土浦に近付いていった。
「楽譜は大事なものだからな」
「うん、有り難う」
 土浦から楽譜を受け取ると、香穂子は軽く頭を下げる。
 もし----土浦を好きになっていたら、こんなに辛い思いをしなくても済んだのではないか。同い年の恋人ならば、逢えない日々に苦しむことはないのではないかと、一瞬考えることはある。
 だが、それはあくまでも「もし」であって、現実にはあり得ないこと。
 香後子は吉羅を好きになってしまったのだから。
「ヴァイオリンを持っているが、これから練習か?」
 土浦にヴァイオリンを見られて、ほんの少しドキリとした。喉がからからになる。
 特別疚しいことなんてしてはいまいが、何故だか妙に落ち着かなかった。
「うん、ちょっと練習しようかなって思ってたんだ。れ、練習室、空いているかな…?」
 こんなに声をうわずらせていたら、きっとおかしく思われる。だが、香穂子は隠すのが下手くそなせいか、余計に挙動不審さを漂わせてしまった。
「おい、どうしたんだよ?なんか変だぞ」
「へ、変じゃないよ」
「お前の“変”はいつものことか」
 土浦にニンマリとからかうように笑われて、香穂子は唇を尖らせた。
「そんなことないのっ!」
「はは、悪い。練習室だが、…確か、音楽科は研修だとかで、今からの時間なら空いているはずだぜ?」
「そう、なんだ」
 香穂子は表面上は笑いながら、本当は練習室ではなく応接室で弾くなんてことは、口が裂けても言えないと思っていた。
「伴奏が欲しければ、俺がやってやるぜ?」
「あ、うん。有り難う…」
 香穂子は上の空になりながら、ぼんやりと曖昧な返事をした。
 今更、今はまだいるだろう吉羅に演奏を聴かせるなんて、そんなことも言えず笑って誤魔化す。
「…今日のお前ってすげぇ変」
「そ、そうかなあ、そうだよね、だけどそうじゃないかもー」
 自分でも訳が解らないままに笑っていると、突然、鼻先に甘い香りが広がった。
「おっと」
 土浦の肩に誰かがぶつかる音がしたので目を凝らすと、そこには吉羅がクールな顔をして立っていた。
「…失礼…。邪魔をしたな…」
 硬くてどこか冷たい声に、香穂子の背中には嫌な汗がわき出てくる。焦るが故に脇の下の汗が滲んでしまう。
 恐る恐る吉羅の顔を見ると、その深みを帯びた瞳には、震え上がるほどの冷たい炎が湛えられていた。
 正直言って背筋が凍りついてしまうほどに怖い。
 吉羅は、香穂子に一瞥を投げると、そのまま応接室へと歩いていってしまった。
「…怖ぇ…っ! 相変わらずだな理事長様は。何だか俺、睨まれたみたいだ」
 土浦が髪をかき上げながら、深く息を吐く。
 香穂子は、先ほどの吉羅のまなざしを思い出し、こころを僅かに震わせる。
 嫉妬? それとも呆れ果てた?
 様々なことをぐるぐると考えながら、香穂子はヴァイオリンケースを持つ手を強く握り締めた。
「ごめんっ! 土浦くん、またねっ!」
「おいっ! 日野っ!」
 土浦が引き止めようとするのも聞かず、香穂子は一目散に応接室へと向かう。
 何とかしないと、吉羅に嫌われて見放されてしまうかもしれない。そう思うだけで、香穂子はこころが潰れそうになってしまった。
 応接室前まで来たものの、その向こうへと行くのは、やはり緊張する。
 緊張してマイナスのことばかりを考える余りに、香穂子はうろうろばかりしてしまい、一本踏み出せない。不 安過ぎて、唇をキリリと噛んでしまう始末だった。
 どうやって応接室に行けば良いかも解らない。入ったら笑顔で、などと考えてはみても溜め息ばかりがこぼれ落ちた。
 このままここでうろうろとしていても不審がられるだけだし、かと言って離れたくもない。
 思案に暮れてジリジリとしていると、突然、腕を強く掴まれた。指の力が肌に食い込んで、直ぐに誰かが解る。
 スローモーションで顔を上げると、案の定、冷たく怒った吉羅の顔とぶつかった。
 こんなビンゴはいらない。
「----ここでうろうろされたら迷惑だ。来なさい」
 低い声で窘められた後、香穂子は応接室の中に、押し込められる。背後で鍵がかかるう音がした。
 吉羅は漆黒に輝く髪をさらりと揺らすと、香穂子に焦燥が滲んだ鋭い眼差しを投げつけた。
「あ、あの吉羅さん…?」
 腕を持ったままで、クラシカルなソファに共に腰を掛ける。
 強引に吉羅が顔を近づけてきたかと思うと、そのまま唇を荒々しく重ねられた。
「…んっ…!!」
 吉羅とキスをするのは初めてではないが、こんなにも乱暴に唇を重ねられるのは初めてだ。
 唇が切れてしまう程に、強く唇を吸い上げられた。血が滲み、ジンジンと痛む。
 痛くて涙を瞳にうっすらと滲ませていると、吉羅が瞳を紅に染めながら香穂子を見た。
「あんなところで、君がその…」
「土浦くんと話をしていたから?」
「----我ながら、子供じみているとは思うが…」
 吉羅は罰が悪そうに視線を逸らしたが、それがまるで迷子になった子供のようで香穂子は酷くこころ惹かれた。
「私と話している時よりも、君が楽しそうに見えたから…。輝いて見えたから…」
 目をそらして項垂れるように呟く吉羅が、とても可愛く思える。これでは玩具を取り上げられて拗ねる子供のようだ。
 香穂子はこころがほんのりと温かくなるのを感じながら、微笑んだ。
「----私が話をしていて、一番ドキドキして、楽しくって、緊張するのは、吉羅さんだけです」
「香穂子…
「----吉羅さんに逢いたくて急いでいたら、たまたま土浦くんに廊下で声を掛けられただけす」
 香穂子は吉羅を真っ直ぐと見つめ、ほほ苑身で包み込む。
「チャイムが鳴って、急いだんですよ。吉羅さん、次のお仕事に行ってしまうかと思って…。だって、吉羅さんはとても忙しいし、いつも逢えるばかりじゃないから…少しでも長く会いたいって思って、急いだんです」
 吉羅はフッと微笑むと、香穂子を腕の中に抱きしめてきた。
「----私は…君が思ってるほど、大人でも何でもないんだ。君が他の男と離しているのを見るのは、あまり心臓に良くないし…その上…」
「その上?」
「いつも会いたいと思っているのは君だけではない。私も君に会いたい、君の奏でるヴァイオリンの音をいつでも聞きたいと思っている…」
「吉羅さん…」
 ぎゅっと抱きしめられると、吉羅は甘くて優しいキスを今度はくれる。甘い思いに満たされて、香穂子の頭はぼんやりとした。
「----今日の仕事は手早く済ませてきた。この放課後は君を独占できる」
「私も独占させて貰いますから」
「お手柔らかにな」
 いつもは厳しくクールなイメージがある吉羅だが、それが信じられないほどに蕩けるように眩しい甘い笑みを、香穂子だけに浮かべてくれる。
「そう、私は欲張りなんです。ヴァイオリンを奏でる前に、ご褒美を貰って良いですか?」
 香穂子は強請るように囁くと、吉羅は穏やかな笑みをフッと浮かべた。
「----ご褒美?」
「思い切り甘いキスと時間を下さい」
「ああ、善処しよう」
 吉羅はネクタイをほんの少し緩めると、香穂子を頭ごと抱き寄せ、その髪を梳きながら、甘くて情熱的な、熱い、熱いキスを暮れた。
 今日は何を奏でようか?
 香穂子は今日は、甘くて眩しいような「愛のあいさつ」が奏でられるような気がした。
 これからもこの秘密の放課後を抱きしめる-----



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