*かたみの桜*


 どんなに背伸びをしても、どんなに速足で駆け抜けても、決して追いつきそうにない。
 ずっとずっと途方もないぐらいに先を歩く吉羅には。
 ルージュを引いても、淡い色でないと浮いてしまうし、どんなにコンサバティブな服装にしても、幼さは残ってしまう。
 吉羅は綺麗で大人な女性が似合う。香穂子が横にいても、妹ぐらいにしか見て貰えない。
 色々と大人びた服装をしようとしたが、いつもの爽やかで淡い服装に落ち着いた。
 落ち着かないからヴァイオリンを持って、吉羅との待ち合わせ場所に向かう。
 待ち合わせ場所である駅の裏手で待っていると、スマートにスポーツタイプのBMWが静かに停まった。
「香穂子、乗りなさい」
 低い男らしい声が聞こえたかと思うと、静かに助手席が開いた。
「有り難うございます」
 いつものようにテーラードスーツではなく、上質のシャツにジャケット、パンツの組み合わせの吉羅は、大人の男の色気を醸し出している。
 香穂子は自分との差を感じる余りに、こころが締め付けられるほど切なかった。
「乗らないのか?」
 やんわりと咎める声に、香穂子はハッとする。
「乗ります」
 香穂子が助手席に乗り込むと、車は静かに閉じられた。
 小さなコンパートメントのなかに、吉羅とふたりでいるだけで、呼吸がコントロール出来ないほどに甘く緊張する。
「花見に行こう」
「はい」
 レイバンのサングラスを掛けて前を見る吉羅の表情が窺い知れない。それゆえに香穂子は不安になった。
 ゆったりとしているはずのシートに小さくなって座り、香穂子は吉羅を強く意識してしまう。
 シトラスのコロンの香りも、ゆったりと隙なくこなすハンドル裁きも、総てが洗練されていて、鼓動を高めていく。
 車という限られた空間にふたりでいると、いつも以上の存在感を感じた。
「リラックスしたらどうだ…?」
 フッと薄く笑う吉羅の余裕ある唇に、香穂子はドキドキしながら、余計に縮こまってしまった。
 時折、逞しく鍛えられた太股が香穂子の柔らかなそれに当たり、躰を跳ね上げさせた。
「ったく、君は私を飽きさせないな…」
 柔らかく綺麗に笑う吉羅に、香穂子はうっとりと見惚れた。
 このひとは静かに笑う。最初は全く笑わないひとだと思っていたが、今や柔らかく笑ってくれるようになってきた。
 こうしてふたりで逢うようになってから、毎日が甘い緊張と新しい発見に日々だった。
「もっとリラックスするんだ。あ、すまないが、カーステレオのスイッチを入れてくれないか?」
「はい」
 香穂子が腕を伸ばしてスイッチを入れると、優しいクラッシックが流れてきた。
 音を聞いていると、ここが車のなかなのではなくて、上質な船の上だと思ってしまう。
 不思議と躰から力が抜けていった。
 不意に膝に手が置かれる。
 吉羅の大きくゆったりとした手のひらが、優しくそして静かな情熱を湛えてゆったりと香穂子を包み込んでくれていた。
 白い肌が瞬く間に紅に染まる。
 男性との付き合い経験がない香穂子は、いきなり経験が豊かな大人の男性と付き合ってしまったが故に、スマートながらも堂々たる男の仕草に、戸惑ってしまいそうになる。
 変な気分だ。
 普通なら離して欲しいと言うところだろうが、香穂子は離して欲しくなんかないと思ってしまう。
 緊張してたまらないのに、甘く艶やかなそれは何よりも素晴らしい大人味のデザートのように思えてしまうから。
「吉羅さん、今日はどこに行くんですか?」
 アスファルトジャングルから、景色が緩やかな自然へと変わってきたところで、香穂子は声を掛けた。
「香穂子、その…吉羅さんというのは…止めにしないか?」
「どうしてですか?」
「…私たちは、その…、ふたりでいるときはただの男と女で、恋人同士だろう…。学校の延長上では呼んで欲しくない…」
「吉羅さんを他にどう呼んでいいか…分からないです…」
「----暁彦」
「え?」
「暁彦と呼んでくれ」
 さらりとヴェルヴェットの肌触りの声で言われても、いきなり呼び捨てることなんて出来ない。
 ドキドキし過ぎて、心臓が跳ね上がり過ぎている。
「…だ、だけど、その、私たちは、学校の理事長と…生徒だし…。そう呼ぶのは…色々と拙いんじゃ…」
「暁彦さん」そう呼んで見たいような気もするが、結局は、自分たちのモラルが曖昧な関係のせうで、吉羅を 傷つけたくないとすら思ってしまう。
 香穂子が百面相で色々と考えていると、吉羅は余裕のある笑みを湛えて、口角を上げた。
「…君と恋愛関係に落ちた時点で、私には教育者としての自覚は飛んでしまっているからな。むしろ、私は教育者には向いていないんだよ。だから君は、私の保身だとか色々と考えなくて良い。君の保身は私が守る。これは当然のことだ…」
 淡々と話す吉羅に、香穂子は甘くてほんの少し苦しい気分になった。
「吉羅さん…」
「ほら、また言った。罰ゲームだ、香穂子」
「罰ゲーム?」
 吉羅は頷いたあと、突然、車を路肩へと停めた。
 一瞬、これから何が起こるのか、香穂子にはよく分からなかった。
 いきなり抱き寄せられたかと思うと、深い角度で唇を奪われる。
「んっ…!」
 舌を深く差し入れられ、香穂子は頭がくらくらしてしまうのを感じる。
 舌先で香穂子の総てを蕩けてしまうようにくすぐられて、目眩を覚えそうだった。
 肌も、心臓、細胞も…。香穂子の総てが切迫しているかのように舞い上がり、香穂子を追い詰めていく。
 震えを止めるかのように、ギュッと強く抱き締められた。
 唇を離されても、まだ呼吸がおかしくなるぐらいに乱れている。
「ちゃんと呼んでみなさい、私の名前…」
「暁彦…さん…」
「及第点だな」
 吉羅はさらりと香穂子に言うと、再び唇を甘く軽く奪った。
「…ちゃんと言えるまでは、罰は受けて貰う」
 こんなに熱くて甘い罰なんてない。
 香穂子が思考がままならずにぼんやりとしていると、吉羅はクールで魅力的な笑みを浮かべ、運転を再開した。
 まだドキドキが止まらなくて、香穂子は上手く話すことが出来ない。
「…今日は随分と静かだな…」
「誰のせいだと…」
「私のせいか…」
 くつくつと喉を鳴らして笑う吉羅に、思い切りエルボースマッシュを決めてやりたくなった。
 車は山手に向かっている。
 だが時折、春の爽やかな光を孕んだ海が見えて、香穂子のこころを弾ませる。
「綺麗なところだと期待してます」
「家族以外とは来たことのないところだ…。姉が亡くなってから、寄り付かなかった…」
 余りに遠くて苦しい瞳をするものだから、香穂子は泣けてくる。
 こころに想いが詰まり過ぎて、香穂子は声を出すことが出来なかった。
「…泣くな…」
「…泣いてなんかないよ…」
 吉羅の繊細で綺麗な指先が、香穂子の頭を撫でる。
「確かに、私は家族の誰よりも姉を愛していた。姉を音楽が奪ったと思っていた。だがそうではないことを、香穂子、君が教えてくれたんだ。だから…泣くな…」
「…はい…」
 香穂子は、吉羅の言葉でこころが熱くなるのを感じながら、静かに頷く。
 だがこころが締め付けられて涙が止まらなかった。
 ふたりを乗せる車は緩やかな坂を上がり始めた。
「うわあ!」
 香穂子が思わず感嘆の声を上げてしまうほどに、坂を彩る桜並木は美しい。
 真っ直ぐと太陽の瑞々しい光を受け取り、まるで薄紅色の宝石のように輝いている。
 桜並木は正しくトンネルのようで、香穂子をロマンティックに浸らせてくれる。昔読んだことがある、夢見る明るい女の子のお話に出てきた風景のようだ。
 美しい光景のお陰で、涙が少しずつ渇いていった。
 車は坂を昇り、やがて重厚な門構えの向こうに入り込んでいく。
 表札には古びた字で「吉羅」と刻まれていた。
 広い車停めに停車すると、吉羅はエンジンを切る。
「…着いた」
「はい」
 香穂子は頷くと、ゆっくりと車から降り立った。
 吉羅は香穂子の手をゆっくりと取ると、しっかりと握り締めて来る。そのまま手を引かれて、庭をゆっくりと歩いていく。
 潮風がとても近くに感じる。横浜の風とはまた違う風だ。
 大きく風を吸い込むと、潮の香りと桜の匂いを感じる。
「ここだ…」
 吉羅に言われて顔を上げると、その向こうには春に輝く海、そして立派な桜の樹がどっしりと構えていた。
 ここだけは時間の流れが違うかのように、ゆったりと流れている。
 声を上げることが出来ないぐらいに美しく神々しい世界に、香穂子はじっと見つめていた。
「…綺麗ですね」
「…ああ。姉とよく見ていた…」
 吉羅は懐かしいとばかりに目を細めると、桜をひとふさ手に取った。
「…お前と見たかった…」
「誘ってくれて有り難うございます」
 吉羅は深い笑みを浮かべながら、桜の樹の下にゆっくりと腰を下ろすと、香穂子に手招きをした。
 手招きされるままに腰を下ろすと、いきなり吉羅が寝転がってきた。
「あっ…!?」
 太股を良いように枕にしてしまった。
「き、きらさんっ!」
 香穂子がうろたえても、吉羅は止めない。
「暁彦だ、香穂子…」
 まるで夢見心地に呟くと、吉羅がゆっくりと目を閉じた。
「----昔…なんて言ったら…年寄り臭いな。まあ、お前から見たら昔だろうが…」
「聞きたいです。暁彦さん」
 香穂子は吉羅の髪を撫でようとしたが、その柔らかな雰囲気にドキドキして触れられない。
「----昔…、姉が生きていた頃は…、ここでこうして桜を眺めた。桜の向こうには海が見えて、今日と同じように綺麗だった。その時、姉が良く、ユーモレスクを弾いてくれたな…」
 吉羅は不意に唇を歪める。
「姉と最後にこの桜を見たときから、何年経ったか…。君がいたから、再びこの桜が見られるようになった。。音楽も、君が奏でるから…優しくかけがえの何ものに、再び戻った…」
「----弾きましょうか?」
「ああ…」
 香穂子はコンクールに出たときに一生懸命練習をしたユーモレスクを、懐かしく思いながら、吉羅の優しい思い出のために柔らかく弾く。
 春風に乗る調べは、いつものも増してウェットにそして感傷的に響いた。
 香穂子がヴァイオリンを弾き終わると、吉羅は僅かに口角を上げる。
「…こうして眠るのは久々だからな…。少し、眠らせてくれ…」
「はい」
 こうして甘えてくれるのが嬉しくて、香穂子は吉羅の髪を優しく撫で付ける。
「…有り難う…」
 柔らかな光がふたりを照らしてくれて、幸せな気分を運んでくれた。





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