「鬼の撹乱ですね…」 「言いたいように言えば良いさ…」 セキュリティチェックが厳しい高級マンションに住む吉羅の元に香穂子が訪ねたのは、午前九時過ぎ。 これでも朝早く出たのだが、香穂子の住む横浜と、吉羅の住む都内の中心部にあるマンションでは結構距離がある。 いつもは吉羅が車を使ってくれるし、一緒にいられるからそんなに遠くに感じたことはないが、今日はひとりで電車に乗ってきたものだから、余計にそう感じたかもしれない。 しかも季節外れに吉羅が風邪を引いたと聞いたせいで、余計にそう思ってしまったのだろう。 「…とにかく…、早く入りなさい…」 「はい」 熱で吉羅の瞳が潤んでいるせいか、かなり色っぽく見える。 不謹慎だが、ほんの少しドキドキもした。 「お邪魔します…」 恐縮とドキドキでゆっくりと吉羅の城に入る。 ダイニングまでなら入ったことはあるが、流石に寝室には入ったことはなかった。 まだ高校生とその学校の理事長だという関係だから。 吉羅は、仕立てが良いのに何故かよろっとしたパジャマのままでふらふらとベッドルームへと向かう。 香穂子は慌ててその後ろに着いていった。 「…流石に今日の私は使い物にならないからな…。暇なら、音楽を聞いたり、クラシックコンサートのDVDがあるから、それを見ると良い…」 「はい、だけど…」 安静にしてあげたいから、音を立てることなんて出来る筈がない。香穂子が口ごもると、吉羅は逆に髪を撫でて来た。 「…私に遠慮することはない…。クラシックなら、騒音ではないからな…」 甘く微笑まれて、香穂子の気持ちは余計に苦しくなった。 吉羅は流石に辛そうで、ベッドに横たわる。 香穂子は慌てて、吉羅に寄り添った。 「大丈夫ですか?」 「…まあ、汗をかいて寝れば治るだろう…」 吉羅は一瞬、香穂子の顔を食い入るように見つめてくる。そのまなざしの熱さに、香穂子は甘い鼓動を感じていた。 「…熱でおかしくなってしまったようだ…」 吉羅は苦笑いをすると、ベッドに静かに沈み込む。 「吉羅さん…」 香穂子がおずおずと吉羅の額に手を宛てると、その熱さに驚いてしまった。 「凄い熱じゃないですかっ! えっと、熱をさまさなくっちゃならないし、えっと…」 コンビニで買ってきた熱冷ましのシートを吉羅の額に貼り付けた後、家から持って来た風邪薬、コンビニで買ってきた栄養ドリンク、更には栄養補給用のゼリーを慌てて差し出した。 「ゼリーを食べてから、ここにある栄養ドリンクや薬を飲んで寝て下さいっ!」 「…食欲はないんだ…」 いつもとは違う弱々しい吉羅に、香穂子は子供を叱るような視線を向けた。 「ダメです。ちゃんとしっかり食べて飲んで下さいっ!」 香穂子がいつもとは違った強い調子でキッパリと言い切ったものだから、吉羅は苦笑いしながらも頷いた。 「…君には…、全く、叶わないな…」 吉羅は身体を起こすと、仕方がないとばかりにゼリーを取る。パウチからゼリーを吸い上げる姿は、何処となく可愛いような気がしてならなかった。 「…後は、薬…だったな…」 「そうです。ちゃんと飲んで下さいね。それでしっかりと寝てさえくだされば、明日にはちゃんと治っていますから」 「ああ」 香穂子の指示に従って柔術な吉羅が可愛いくてしょうがない。 薬と栄養ドリンクを飲むのを見届けた後、香穂子は吉羅をベッドに寝かしつけた。 「…私は小さな子供じゃない」 「風邪を早く治すためですから従って下さいね。ゆっくりと眠れば治りますから。大体、吉羅さんは働き過ぎなんですよっ」 「ああ」 「だから、今日は神様から頂いた休暇だと思って下さいね」 香穂子は吉羅の肩まで上掛けをかけると、にっこりと微笑んだ。 「…香穂子、私が目覚めるまでここにいてくれるか?」 「もちろんそのつもりですから、安心して眠って下さいね」 「解った…」 吉羅はフッと幸せそうな笑みを唇に浮かべると、香穂子の手をいつもよりも力強く握り締めてくる。 その手は情熱的だなんて言えないほどに熱かった。 吉羅が手をしっかり握り締めて、安心しきった子供のように寝息を立て始めた頃、香穂子は風邪薬や栄養ドリンクの空き瓶を片付けようと、立ち上がろうとした。 「…あっ…!」 いつもよりも更にしっかりと結ばれている手に、香穂子は思わず優しい笑みを浮かべた。 いつも大人で常にリードしてくれる吉羅が、こうして小さな子供のように頼ってくれるのが嬉しくてしょうがない。 香穂子は、吉羅の寝顔を覗き込みながら、温かな日だまりのような気分になった。 無防備な吉羅の姿を見るなんて、思えば初めてかもしれない。 なんて愛らしくて、そしてなんて綺麗なのだろうかと思ってしまう。 「…行かないで…、姉さん…」 熱に冒された吉羅のうわ言に、香穂子は胸の奥が切なく痛む。 吉羅の姉のことを想うと、いつも泣きそうな気分になってしまうのだ。 「…何処にも行かないから…」 香穂子は、まるで言い聞かせるかのような優しい声で、吉羅に語り掛ける。 すると苦しげな吉羅の表情が、僅かに明るさを取り戻した。 「…良かった…」 安堵したように大きな息を吐くと、吉羅はまた眠りこんでしまった。 香穂子は、その姿を見守りながら呟く。 「…ずっとそばにいますから…。暁彦さん…」 まだ一度も呼んだことのない名前で呼んだ後、香穂子はくすりと笑った。 吉羅が無防備に眠るのを見ていると、とても気持ちが良さそうで、こちらまで直ぐに眠ってしまいたくなる。 香穂子はくすりと笑うと、いつの間にか心地よい眠りに入っていた。 どれぐらい眠っていたのかは解らない。ただ誰かが優しいリズムで髪を撫でてくれていた。 目を開けると、先ほどよりは幾分か顔色を良くした吉羅がこちらを見ていた。 「起きたのか? 勿体ないな」 吉羅は本当に残念そうに笑うと、香穂子の髪をなでつけた。 「寝ていて下さいね。顔色は良くなりましたが、まだ少し具合が悪そうですから」 「…マシだよ。かなりね」 吉羅は微笑んでくれると、香穂子の瞳を覗き込む。まだ瞳が濡れるように揺れていて、とても心配だ。 「…まだ熱がありますよ?」 「本当は…、手っ取り早い熱の放出方法はあるんだが…」 香穂子を意味深に見つめる吉羅にドキリとする。熱があるというだけで、何と艶やかなのだろうか。 「方法って何ですか? 私に出来ることだったら何でもしますよ」 「…まあ、君じゃないとやっては貰えないんだが…」 「だったらやりますっ!」 それが何かは解らないが、香穂子はキッパリと吉羅に言い放つ。熱を下げてあげられるのならば、本当に何でもしてあげたかった。 「…いや…、今は良い…。卒業後の楽しみにさせて貰う…」 まるで小さな子供を見るような目付きで香穂子を見つめた後、吉羅は頬を撫でて来た。 「どうして苦しいのにしないんですか?」 「…まあ、私も教育関係者だからな…。余りリスクは背負いたくはないんだよ」 「変な吉羅さん…」 香穂子は呆れ返るように笑うと、ベッドサイドから立ち上がった。 「お腹空いたので冷凍うどんを作りますが、吉羅さんは食べますか?」 「ああ、少し貰おう」 「はい」 香穂子はキッチンに立つと、シックで豪華なキッチンには似合わない冷凍うどんを作る。 温かいものを食べて貰って汗をしっかりとかいて貰いたかった。 「だけど、吉羅さんはどんな方法を知っているのかなあ…。何だかそっちのほうが特効薬っぽいけれどねー」 香穂子がその事実を改めて知るのは、高校を卒業してから。 知った瞬間、あの頃の吉羅の理性に感謝したのは言うまでもなかった。 |