*気分転換*


 コンミスなんて、何をどうして良いのかが解らない。
 香穂子は困り果てたように溜め息を吐くと、前をよく見ずに歩く。考え事をしている時の癖だからしょうがないと言えば、しょうがないのかもしれない。
 また溜め息を漏らしながら歩いていると、何か硬いものとぶつかり、はね飛ばされそうになった。
 だが香穂子は飛ばされることはなく、しっかりと逞しい躰に支えられているのが解った。
「日野君…。君は前を見ずに歩くのが得意なのか?」
 よく響く事務的な声に顔を上げると、そこには吉羅が立っていた。
「あ、有り難うございます…」
 吉羅の顔を見ると、綺麗な顔が呆れた表情に彩られている。
「何だか、かなり思い詰めているようだが?」
「…あ、あの…、コンミスのことを考えていて…」
 きっと吉羅のことだ。呆れ返っているに違いない。
 アンサンブルの経験はあっても、市民レベルとは言えオーケストラだ。緊張しないわけがない。
 黙っている吉羅の緊張感に、香穂子は溜め息を吐いた。
「…相当ストレスが溜まっているようだね」
「ス、ストレスっていうか…その…」
 吉羅の緊張感と、そして…。逞しい腕に支えられていることが、今、一番の萎縮の原因だとは言えない。
 黙っていると、今度は吉羅が溜め息を漏らした。
「気分転換が必要かもしれないね。君は」
「そうですね」
「だったら、これから私がストレスを発散出来るところを提供しよう。どうだ、一緒に来ないか?」
 これはデートのお誘いだろうか。いや、それはあり得ない。吉羅は大人の男で、香穂子のような子供を相手はしないだろうから。
 なのにドキドキしている。しかも嫌なドキドキではなくて、何処か甘酸っぱいときめきだ。
 落ち着いて考えることが出来なくて、香穂子は上手く答えることが出来なかった。
「…嫌なのか?」
 吉羅の顔を見上げると、まるで迷子になった子猫のような表情をしている。
 胸が切なく痛み、吉羅のこと以外は考えられなくなる。
 なんて心許無い表情をするのだろうか。
 なんて守ってあげたくなるような瞳を向けてくるのだろうか。
 いつもは大人の吉羅の少年のようなまなざしに、香穂子の魂は深く揺さぶられた。
「…行きます」
「え?」
「連れていって下さい。ストレス解消が出来る場所に」
 香穂子が穏やかな笑みを湛えながら呟くと、吉羅の顔にどこかホッとしたような表情が浮かび上がった。
「では行こう」
「はい」
 吉羅は香穂子をきちんと立たせてくれると、駐車場に置いてあるフェラーリに向かって歩き始める。
 先ほどの迷子の少年のような表情が、香穂子は忘れることが出来ない。なんて切なくて、哀しい表情をするのだろうか。
 あれは明らかに本当の意味の愛情を知らない表情だ。
 愛など関係ないなどと表面では装いながらも、最も愛情に飢えているひとなのかもしれない。
 香穂子はフェラーリの助手席に座ると、吉羅はゆっくりと車を出す。
「日野くん」
「はい」
「気分転換はとても必要なものだと思うよ。私のようにビジネスの世界に生きている者も、気分転換は欠かせない。君のように音楽で何かを表現しようとしているなら余計にそうだろう。だから、たまには息抜きをすると良い」
「そうですね。息抜きは大事なのかもしれないですね」
 こうして吉羅の車に乗っているだけで、妙にドキドキとする。
 喉がからからになる程の緊張感に、正直言って心臓が持ち堪えるのかと思ってしまう。
「…どうした? かえって緊張してしまったか?」
「い、いいえ。そういう訳では…」
 緊張しているのは、きっとこの手の震えで解ってしまうだろう。
 吉羅の存在にときめいてドキドキしているなんて言い出せるはずもなかった。
「…私が一緒だと、かえって緊張させてしまったかな?」
 吉羅は苦笑いとも取れる困ったような表情をする。
「いいえ、とっても感謝しているんですけれど、何だか…その、上手く言えないというか…。吉羅さんが怖いからだとか、そんなことではなく、あ、もう、日本語って難しいな…。とにかく、大丈夫ですからっ!」
 全く説得力のかけらもない、香穂子の訳の解らない言い訳に、吉羅は怒るのではなく、薄く笑う。
「まあしょうがないのかもしれないね。私は君とは敵対していたようなものだったからね…」
 吉羅の言葉に、香穂子は益々困り果ててしまう。
 吉羅が嫌いな訳ではなく、むしろその逆で緊張してしまっているのだ。
 そのことを上手く伝えるのはやっぱり難しかった。
「あ、あの…! 吉羅さんはどのような気分転換をされるんですか?」
「…気分転換ね…。今は学院に通うことが、私にとってはある意味気分転換になっているね」
「それじゃあお仕事と一緒じゃないですか?」
「どうしてなのか、私にもよく解らないんだかね…」
 吉羅はふと甘い表情を浮かべた瞳を緩ませる。
 出会った頃はとても冷たそうな人だと思っていた。
 だが実際には温かなまなざしも優しい気遣いも兼ね備えたひとだ。
 香穂子は吉羅の横顔を見つめながら、ときめいておかしくなりそうだった。
 車はゆっくりと横浜の市街地を走り抜ける。
「…どこに行くんですか…?」
「とっておきの場所だよ。私は気分転換がしたいといつも訪れる」
 吉羅の気分転換する場所を知りたくて、こころが揺れる。
 このひとをもっと知りたい。このひとの本当の表情を見てみたいとすら思った。
 吉羅の車は、高層ビルの地下駐車場へと到着した。車を降りると、そこからスタッフ用のエレベーターへと向かう。
「君は高所恐怖症?」
「いいえ」
「そう、良かった」
 吉羅が最上階のボタンを押して、エレベーターは動き出す。
「ここは一般開放はされていないから、誰にも邪魔されない。ゆっくりと気分転換がはかれる」
「楽しみです」
 香穂子はエレベーターを下りた向こうに何があるのかと期待しながら、到着するのを待った。
「何だか耳が痛いです」
「急に上昇するからね。気圧の変化だ」
 吉羅は慣れているのか平然としていた。
 ふたりだけのコンパートメント。甘い緊張に、また呼吸が続かない。
 でも悪い緊張じゃなかった。
 ようやくエレベーターを降りると、吉羅がゆっくりと手を差し延べてくれる。
 ごく自然にエスコートでもするかのように手を差し延べられて、香穂子は自然に取っていた。
 触れられた部分が沸騰する。
 余りにドキドキしてしまい、普通の鼓動はどのようなものだったかを、思い出せなくなる。
「ここから見る夜景は、最高なんだよ」
 吉羅が連れて行ってくれた場所は、まさに特等席だった。無数の人工的な星が地上を彩っている。
 言葉を失うような見事な夜景に、香穂子は五感の総てを奪われる。
 こんな素敵な夜景を見せられたら、自分の悩みなんてちっぽけなものに思えてしまうから不思議だ。
「綺麗…! 本当に素敵です! 吉羅さんどうも有り難うございます!」
 香穂子は、まるで小さな子供のようにはしゃいでしまう。
「君が気に入ってくれたようなら、それは良かった」
 ふと強く手を取られてドキリとする。
 吉羅を見つめると、とても穏やかで素敵な表情を浮かべていた。
 余りに魅力的で、こころのなかに甘い言葉が浮かび上がる。
「好き」という言葉が。
「ここは何も考えずただ疲れを癒す光をくれる。だから私は気に入っているんだ」
「元気がいっぱいになりました」
「それは良かった。また来よう、君さえよければ、一緒に」
「はい」」
 香穂子は夜景ではなく、吉羅を見つめる。
「好き」と言っても良いですか?
 自覚する想いを抱いて、香穂子はまた夜景を見つめた。



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