大学に行っても、ふたりの関係が変わるかと言われたら、少しも変わらない。 相変わらず“理事長と生徒”の枠は外れないのだから。 大学生になると、高校生の頃に比べて時間管理の正確さが要求されてくる。あの頃は、学校が用意してくれた枠組みがあったが、今は自己管理が要求される。 だからこそ忙しさも増すし、以前に比べると恋人と時間を重ねることが出来なくなっている。 恋人は、星奏学院の理事長であり、株式ファンドの代表の顔を持つ男性。 多忙過ぎて余り逢えないひと。 高校生の頃は、それでも何とか出来たのだが、大学生になった今となっては、時間が余りにもあわなくなっている。 大学から駅へと抜ける緩やかな坂を下りながら、香穂子は少し手前に歩くカップルを羨ましく思っていた。 「日野さん、今、帰り?」 声を掛けられて振返ると、同じ専攻の男の子がそこにいた。 「うん、これから楽器店に行って、弦の調子を見て貰おうと思って」 「だったら俺も一緒して良い? 楽譜を見に行こうと思っているんだ」 「うん、大歓迎だよ。一緒に見に行こうよ!」 香穂子は良い道連れが出来たと喜びながら、にっこりと微笑んだ。 不意に一台の車がふたりの前にやってきて、大胆にクラクションを鳴らす。 重厚な外車。誰の車かは香穂子は直ぐに解った。 運転席の窓が開き、サングラスを掛けた吉羅が姿を現した。 「香穂子、乗りなさい」 艶やかな声はいつもよりも刺々しい。逆らうことが出来ないオーラを香穂子は肌に痛いぐらいに感じ取っていた。 「あ、はい…」 香穂子は横にいた青年にすまなくてたまらなくて、小首を傾げて見つめた。 「ごめんなさい。いかなくっちゃ」 「そんなに大事な用件なの?」 青年は吉羅を牽制するように見たが、逆に威嚇をするように睨まれてしまい、肩を竦めた。 「ごめんなさい」 「仕方がないね。じゃあまた、日野さん」 「うん、また…。さようなら…」 香穂子が青年を見送って手を振ると、再びクラクションが鳴り響く。 「早く乗れ。いつまで待たせる」 「あ、はい」 どうして吉羅はこんなに不機嫌なのだろうか。 香穂子は溜め息を吐くと、いつものように助手席に腰を下ろした。 「今の男は?」 「え? あ、今の彼は同じ専攻なんだよ。よく話しかけてくれるんだ。向こうは入学試験から私のことを知っていてくれたみたいだけれど、それって凄く嬉しいことだなあって」 ちらりと横にいる吉羅を見ると、ただならぬ雰囲気を漂わせていた。 正直言って、かなり怖いかもしれない。 サングラスを掛けたままなのでその表情は伺いしれないが、かなり怒っていることは確かだった。 「ったく…、バカがつく無防備さだな…。相手に下心があることぐらいは、普通なら気付くだろう」 吉羅は呆れ返るように溜め息を吐くと、乱暴に車を発進させる。いつもは冷静沈着な吉羅にはかなり珍しい光景だ。 「だって、その同じ音楽を志す仲間だし、そ、そんな下心なんて今まで感じたことはないしっ! 暁彦さんは 変だよっ! だってそんな穿った考えをするなんて、考えられないよ」 香穂子は理不尽過ぎる吉羅の態度に、眉間に皺を寄せながら怒る。どうしていつも怒るのだろうか。それが香穂子には気に入らなかった。 「真っ当な考え方だ」 「真っ当なわけないじゃないですかっ」 香穂子が顔を背けると、吉羅は困ったように溜め息を吐く。 「君は男を解ってはいないね。君が思うほどに男は良い生き物ではないよ」 「吉羅暁彦さんをずっと見ていれば解ります」 香穂子はかたくなな気分になりながら、声を硬くしてキツめに呟いた。 「君は何も解ってはいない」 「暁彦さんこそ」 「…どうしてそんなに頑固なんだ…」 「頑固にさせるのは、暁彦さんです」 先ほどから堂々巡りが続き、互いの溜め息が車内を包み込んで来る。 「ったく、君がこんなに頑固だとは思わなかったな」 「暁彦さんがこんなに勝手なひとだってことは、前から気付いていましたけれどね」 不意に躰が大きく揺れたかと思うと、車体が静かな歩道に乗り上げた。 「暁彦さん、あぶな…っん…っ!」 噛み付くような大胆なキスが唇に浴びせられる。香穂子が自分のものだと主張するような荒々しいキスに、細胞がおかしくなりそうだ。 唇に血の味が滲むほどに強く唇を吸い上げられたかと思うと、総ての酸素を吸い尽くされる。 こんなに乱暴なキスなら抵抗しても構わないだろうが、香穂子にはそれが出来なかった。 舌すらも自分の意志で絡ませることも出来ずに、大胆でかつ暴力的なキスを受け入れてしまう。 痛いはずなのに。 どうして肌はこをなにも喜んでいるのだろうか。 どうしてこんなにも甘くて切ない想いを感じてしまうのだろうか。 息が出来なくて、酸素不足になったところで、ようやく唇を離して貰えた。 頭がぼんやりとする。 何も考えられないでいると、いきなりむき出しの首筋に唇を強く押し当てられた。 「…いっ…!」 まるで香穂子が自分のものだという噛み痕をつけるように、吉羅は強く首筋を吸い上げてくる。 「…んっ…!」 甘い呻き声を上げたところで、吉羅はようやく唇を離した。 「虫除けだ。君は本当に隙だらけ過ぎる」 嫉妬にまみれたような吉羅の声と表情に香穂子は嬉しくて、微笑みを滲ませた。 「…ずっと会えなかったからな…」 「それは暁彦さんが忙しいから」 「解っているが、どうしようも出来なかった。なのに私は君に逢いたかった。私が逢えない間、先ほどの男のような虫がつかないか、気が気でなかったしね…」 吉羅が子供のように拗ねるものだから、香穂子は吉羅を思い切り抱き締めた。 「…私は暁彦さん以外に特別はいませんから」 「解っているが、こう逢えないとなるとやはりかなり辛いからな」 吉羅は香穂子の髪をそっと撫でたあとで、再びハンドルを握り締めた。 「香穂子、こんなに会えないとなると、事態を打開しなければならないな」 「私だって毎日でも暁彦さんに逢いたかったんですよ」 「ああ。だから一緒に暮らさないか?」 さり気なく言われたものだから、一瞬、香穂子は何を言われたのか理解出来ずに、吉羅を惚けた顔で見つめた。 「…だからその…、私と一緒に暮らさないか? 都内からの通学になるから、君には不便をかけるとは思うが…」 一緒に暮らす。 ずっとずっと夢を見ていたこと。 大切なことをこんなにさりげなく言われるなんて思ってもみなかった。 「返事は?」 訊かなくても解るといった風な余裕をちらつかせる吉羅のクールさが少しだけ悔しい。 香穂子が黙っていると、吉羅が手を握ってきた。 表面上はあんなに余裕を持っていたのに、手から感じるのは不安だった。 「香穂子」 まるで愛を懇願するかのように、吉羅は香穂子の手を強く握り締めた。 香穂子は手を柔らかく握り返すと、吉羅に視線を送った。 「一緒に暮らしましょう」 「有り難う…。幸せにする」 魂の奥深い場所から絞り出すような声で、香穂子に呟く。それが何よりものプレゼントになる。 何よりも幸せな恋が手のひらに落ちて来た。 「私も幸せにしますから」 「…ああ」 車は静かに横浜の街を走る。 それはまるで幸せな道を走っているようだった。 それが香穂子にとってのヴァージンロード。 |