*甘い記憶*


 大人びて腕を組むのが相応しいと思う。
 だが、こうして大きな手でしっかりと握り締めて貰えるほうが嬉しい。
 だからいつでも、無言の「手を繋いで」を瞳と指先で囁いてしまう。
 車に乗せて貰って、さり気なく手を握って貰うのも良いけれど、手を繋いで肩を並べて歩くことが何よりも 幸せな気分になる。
 小さくて素敵な幸せ。
 だから今日もわがままを言って、香穂子は吉羅に徒歩で送って貰った。
 駐車場から自宅まで、ゆっくりと優しいお散歩をするような気分で、手を繋いで歩いて貰えるのが、何よりも嬉しかった。
「君は徒歩通学なんだな」
「はい。だから朝寝坊が出来るから学院を選んだんですよ。だけどお母さんは違うっていうんですけれどね」
「何が違うんだ?」
 ふと通りかかった公園前で立ち止まると、香穂子は懐かしくて目を細める。
 本当は懐かしいと言える程の記憶はないのだが、母親にいつも聞かされていたからこそ、とても懐かしく思えるのかもしれない。
「よちよち歩きのときに、この公園で、学院の音楽科のお兄さんを襲ったことが…あるらしくて、それの擦り込みじゃないかって、お母さんは言うんですけれどね。とても綺麗なお兄さんらしくて、私の一目ぼれだったかもって。有り得ないですよねー」
 香穂子はくすくすと笑いながら話したが、吉羅は妙な顔をする。何だかそのことを克明に知っているかのようだ。
 吉羅は咳払いをすると、香穂子に優しい少し困ったようなまなざしを向けた。
「…その、お母さんは、学院の音楽科男子生徒にしがみついて離れなかったうえに、顔まで舐めた…と、言わなかったか?」
 吉羅は困り果てたように話してはいるが、どこか華やいだ雰囲気があり、とても魅力的だ。
「…え! どうしてそれを知っているんですか!?」
 吉羅が余りにも克明に言うものだから、香穂子はびっくりして目を大きく見開いた。
「…それは…、その音楽科の生徒が…私だからだよ」
 吉羅は珍しく照れ臭そうに言うと、香穂子を甘い視線で包み込む。
「…うそ…」
 余りにもの出来過ぎた事実に、香穂子は息を飲み込んで固まってしまった。
「金澤さんとあのベンチで座り込んで話している時だったと思う。恐らくは金澤さんも覚えている筈だよ。結構…その…強い印象だったからね」
 吉羅が言葉を選んで話してくれていることが解る。香穂子は自分の所業を振り返るなり、頭を抱えたくなった。
「ベロベロ舐める以外に、し、失礼なことをしませんでしたか!?」
 襲った相手がよりにもよって吉羅だったなんて。突き付けられた事実に、香穂子は溜め息を零したくなった。
「…まあ、私も色々とあった頃だったから、癒して貰えたのは間違いなかったけれどね」
 吉羅はベンチに香穂子を誘うと、柔らかく艶のある笑みを浮かべてくれた。

「ちょっと香穂ちゃん!あんよは上手でしょ」
 賑やかな声が聞こえる公園で、このベンチだけは別世界だと暁彦は思っていた。
 木洩れ日を浴びた幸せの象徴のような公園のベンチだけは、鈍色が似つかわしい。
 暁彦は、良き相談相手として頼りにしている金澤とベンチに座り込んで、眩しい世界を沈んだ視界で見つめていた。
「…お姉さん、そんなに悪いのか…」
「毎日逢いに行っていますが、その度に痩せ細っているような気がします。医師からも覚悟はしたほうが良いと…」
「そうか…」
 イタリア留学を控えた金澤にこんなことを言うつもりはなかったのだが、つい口に出てしまった。
「…そうか…。俺は彼女のヴァイオリンが、何よりも好きだな」
 金澤はポツリと呟くと、深刻そうに黙り込んでしまった。
「…だが、お前さんがしっかりしないと、彼女は絶対に悲しむぞ」
「解っています…だから」
 不意に視線を下げると、暁彦の視界に小さなぽてぽてと歩く赤ん坊が飛び込んできた。
 何が嬉しいのか判らないが、精一杯の笑顔を暁彦に向けている。
「香穂ちゃんっ! こっちに来なさい」
 母親がいくら何を言っても聞く耳を持たないとばかりに、玩具のようにこちらに向かって走ってきた。
 何度も躓くのに、その度に泣きもせずに立ち上がるのがとても愛らしかった。
「あの子、お前さんのことを相当気に入ったみたいだなあ。どうだ、嫁さんにでもしてやるか?」
「金澤さんっ!」
 相変わらずな金澤を嗜めると、豪快に笑われてしまった。
「そうだよな。こんなチビに手を出したら、それこそ犯罪では済まなくなるなあ。お前さんが三十路になっても同じか」
 金澤は瞳に涙をうっすらと滲ませながら受けている。
「止めて下さい金澤さん」
 きつく言った瞬間、ぱふりと温かな温もりに包まれた。
「にーたっ!」
 優しくて温かいこころを癒してくれるような温もり。
 吉羅は思わず身を引いてしまった。
 しかしこの赤ん坊はしつこいらしく、吉羅の躰にしがみついたまま動こうとしない。そのうえ、膝の上にまで登ってきてしまった。
「おいっ! 何をするんだっ!」
 いくら吉羅が抵抗をしても、赤ん坊はしがみつく。
 もの凄い力で膝まで登ってきてしまった。
「吉羅、お前は相当、気に入られているみたいだな」
 金澤が笑うのを横目で睨み付けながら、ほとほと困り果ててしまった。
「…下りて貰えないかな?」
 思わず声が引きつる。
 だが吉羅を見つめる澄んだ大きな瞳は、真っ直ぐと捉えて来る。
 そのまなざしの純粋さに、吉羅は息を呑んだ。
 こころの中の一番澄み渡った場所に光を宛てられ、癒されていくような気がする。
 息を呑んだまま赤ん坊を見つめていると、突然、頬にキスをされた。
 なぜだかこころのど真ん中に速球ストレートのストライクを投げ込まれた気分になった。
 こんな小さな子供に動揺させられるだなんて、吉羅は焦りを感じてしまう。
 だが癒されていた。
 唾液だらけになってはいるが、とても温かなキスにこころを動かされてしまう。
 棘が沢山出ていたこころが、穏やかな落ち着きを取り戻していた。
「にーたが元気になりますようにっ!」
 ニッコリ笑われて暁彦は完敗だった。
 ひょっとして、今までの誰よりも癒してくれる相手のような気がする。
「まあ! 香穂ちゃんっ! あなたは何をやっているの! 全くもうっ!」
 母親は慌てて暁彦に駆け寄ると、わが娘を剥しにかかった。
「ごめんなさいね。本当にこの子ったら!」
「いいえ」
 母親の腕のなかでムズがる赤ん坊を見つめながら、何だか切ない気分になってしまった。
「災難だったな」
「いいえ。何だか元気を貰いました」
 母親に抱かれている隙間から、バイバイと手を振る様子が可愛いくて、暁彦は思わず笑う。
「あの子はきっと覚えていないだろうな。後十五年経って逢っても…。あ、それじゃあお前もオッさんになってるから、犯罪には違いないか」
 金澤は豪快に笑いながら、暁彦の背中を温かく叩いてくれた。

「あれが暁彦さんだったなんて…。なーんて言っても、覚えてないんですよね。覚えていたかったな…」
 香穂子は少し勿体ないような気分になり、フッと空を見上げた。
「じゃあ思い出して貰おうかな」
 吉羅は楽しそうに言うと、香穂子を優しい目で見つめる。
「あの時のように、癒してはくれないのか?」
 吉羅は意地悪で艶のある笑みを浮かべると、ギリギリまで顔を近付けて来る。
「…あ、あの、その、それは私に“キスをしろ”と命令しています?」
「さあね。それは君次第だろう? 思い出したい? それとも思い出したくない? あの頃のように、私は君から 元気を貰いたいんだけれどね」
 吉羅の言葉と声に逆らうことなんて、出来る筈などないではないか。
 香穂子はもじもじしながら上目遣いで吉羅を見つめると、あの頃とは違う唇にキスを贈った。



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