父親が持つ万年筆は、憬れの対象。 小さな頃から、あの万年筆が欲しくてしょうがなかった。 まるで大人の象徴のような気がしたから。 日曜日も吉羅は、隙間時間を探しては、仕事をしている。 本当によく働くと思う。 だが、これも息子や香穂子と一緒に過ごすためなのだ。 それは解っていても、余り無理はして欲しくないと思う。 「ママ、とーしゃんのとこに行っていい?」 暁慈はお気に入りの自由帳を片手に香穂子に尋ねてきた。 「お父さんはお仕事をしていると思うよ。だからあきちゃん、邪魔をしないようにね」 「…あい…」 暁慈はがっかりしたようにションボリとしている。 可哀相だとは思ったが、仕方がない。 吉羅は、何気ない家族の時間を作るために、隙間時間を使って仕事をしているのだから。 「あきちゃんもおべんきょうしゅるから、静かだよ」 「邪魔になっちゃうからダメだよ」 「一緒にお仕事しゅるから! とーしゃん大変っ!」 暁慈はそれだけを言うと、吉羅の書斎に小走りで向かう。 「あきちゃん!」 香穂子が追い掛けようとするものの、お腹が大きいために、上手く追い掛けられない。 追いついたが、既に暁慈は吉羅の書斎に入ってしまっていた。 吉羅は仕事で使うデータを作り終えて、次の仕事にかかっていた。 書類に目を通してサインをするのだ。 これが終われば、家族とのんびりと過ごすことが出来る。 数もそれほどないので、直ぐに終えることが出来るだろう。 中学生の頃から愛用している万年筆を取り出して、吉羅は書類に目を通す。 もうかなりの年季が入った万年筆だが、持つ感覚も軽やかでとても使いやすい。 使い込んでいるからか、軸は良い艶と照りが出てきている。 流石は海外の一流メーカーのものだけはある。 かなり長い間使っていても、ベストコンディションで使うことが出来るのだから。 これには吉羅も驚いていた。 何か重要なサインをしなければならない時にも、この万年筆を使っている。 香穂子との婚姻届もこの万年筆で書いたのだ。 ずっと使って行こうと思っている逸品だ。 吉羅が書類を読み終えてサインをしようとしていると、賑やかで無垢な雰囲気を感じた。 恐らくは暁慈だろう。 この雰囲気を感じるのが、今や幸せでしょうがないのだ。 暁慈はいきなりドアを叩いた。 「とーしゃんっ、いっちょにお仕事しよっ!」 いきなり何を言い出すのかと思ったが、その誘い方が可愛くて、吉羅は思わずドアを開けた。 すると暁慈は、お気に入りの自由帳と鉛筆を片手に、書斎に入ってきた。 「とーしゃん、あきちゃん、静かにしゅるから、いっちょにお仕事ちよう! あきちゃん、おべんきょうしゅるから」 早口でまくし立てる息子は可愛い。何処か焦っているのは、恐らくは香穂子に怒られて追い掛けられている途中なのだろう。 香穂子のことだから、父親の邪魔をしないようにと言ってくれたのだろう。 今は妊娠中であるから、香穂子は上手く走ることが出来ない。 そのために、捕まえることが出来なかったのだろう。 「…ちゃんと静かにするんであれば、中に入っても構わないが…」 「しじゅかにしゅるから」 暁慈は真剣に吉羅を見ている。 それを見ると断ることは出来なくなる。 「解った、ちゃんと静かにしているんだよ。お父さんの仕事はもう少しだけかかってしまうからね」 「あい…」 暁慈は男の約束とばかりに真剣に頷いている。 「あきちゃん、お仕事てちゅだうから」 「有り難う」 吉羅が暁慈を抱き上げると、香穂子がやってきた。 「あきちゃん、お父さんの邪魔をしてはダメでしょう!」 「いいや、構わない。もう少しで仕事は終わるからね。君は何も心配をしなくても良いよ。香穂子」 「分かりました。では、あきちゃんが仕事を邪魔したら、直ぐに部屋から出して下さいね」 「ああ、解っているよ」 吉羅は頷くと、暁慈を連れて書斎に入った。 書斎に入ると、暁慈は椅子に腰掛けて、吉羅の机の端を借りて、本当に勉強をし始めた。 勉強とは言っても、自由帳に意味のない言葉や、訳の分からない絵を描くぐらいなのだが。 本当におとなしいものだから、吉羅は安心して仕事の続きを始めた。 これだといつもと同じスピードで仕事が出来そうだ。 吉羅が万年筆を取り出すと、暁慈はそれをじっと見つめ始めた。 「とーしゃん、しょの鉛筆しゅてきだ」 流石は我が息子だと思う。 目の付け所が違う。 好みまで似ているということは、やはり血は争えないということなのだろう。 吉羅は誇らしい気分だった。 「これは鉛筆じゃないんだ。万年筆といって、大切なものを書く時に使うんだ。お父さんが中学生ぐらいの時にお前のおじいちゃんから貰ったものだよ」 「ちょうなんだ。格好いい…」 暁慈は、車を見るのと同じようなまなざしで、憧れを持って見つめている。 そのまなざしを見ながら、確実に成長しているのだと思った。 「とーしゃん、これぽちい」 暁慈は本当に欲しそうなまなざしを向けてくる。 可愛いが、これはあげることは出来ない。吉羅の大切な思い出が詰まったものだから。 「暁慈、これはお前にはあげられないよ。お前が大人になってきちんと万年筆が使えるようになってからも難しいかな」 「…しょうか…」 暁慈はしんみりとしながら、小さな溜め息を吐いた。 「暁慈、万年筆を使うには、ちゃんと大人にならなければならないんだ。お前が何でもひとりで出来るようにならないと、万年筆を持つことは出来ないんだよ」 「…あい…。あきちゃん、とーしゃんとママがいないとダメだ…」 「そうだ。だからまだお前は万年筆を持つことは出来ないんだよ」 吉羅が諭すように言うと、暁慈はしょんぼりと頭を垂れた。 「…解った…」 暁慈はきちんと理解してくれている。 我が息子ながら素直でしかも理解が早く、吉羅は助かっていると言っても良かった。 「暁慈」 吉羅は屈むと、息子に視線を合わせる。 「お前が万年筆を持てる時期になったら、私とお母さんからプレゼントしよう。それまで待っていてくれるかな?」 「あいっ!」 暁慈はようやく笑顔になり静かに頷く。 「これは約束だ」 「あいっ!」 暁慈は未来を思わせる明るい笑顔を吉羅に向けてくれていた。 あれから、休日に吉羅が仕事をしていると、暁慈は一緒に勉強するようになった。 幼い頃は本を読んだり、知能パズルをしたりし、学校に上がってからは宿題をするようになった。 そして、中学生になった今も、一緒に勉強をしている。 きちんと静かにしているために、特に吉羅の邪魔になることはない。 無言で走る吉羅を、暁慈はその背中を見て追いかけてくれている。それが吉羅には嬉しい。 暁慈は、子供の頃から、いつも吉羅が万年筆を使う姿を憧れを持って見ていた。 小学校を卒業する頃、暁慈に吉羅は訊いてみた。 「暁慈、そろそろ万年筆が欲しいかね?」 これに対して、意外なことに暁慈は首を横に振った。 「…父さん、俺にはまだまだ持つ資格はないよ…。まだガキだからね。それに万年筆をどこで使って良いかが分からないしね」 妹や弟から頼られているからか暁慈はしっかりしてきている。 吉羅は、もう間も無く万年筆を持つ資格が出来るだろうと、頼もしく思う。 暁慈は今も昔も、ずっと自慢出来る息子だ。 吉羅は心から幸せだと思う。 香穂子とふたりで、万年筆を準備してプレゼントをするタイミングを待ちながら。 |