理事長室は大学にも高校にもどちらにもある。 生徒にとっては“開かずの間”で、殆ど近付くことはない。 吉羅暁彦が理事長に就任してからもそれは変わることはなくて、香穂子も近付かない生徒のひとりだ。 吉羅とは他の生徒よりも話しているほうだと思うが、香穂子すらもまだ理事長室に入るほどには近付けてはいない。 いつか笑顔でその部屋に入ることが出来ればと香穂子は思ってはいるものの、遠い話のような気がしている。 あのこころに入り込むことが、難しいと解っているから。 吉羅の姿を無意識で探すようになったのは、何時からかは解らない。 だが気がつくと、いつも視線で追っていた。 冷たい瞳をしたひと。 その奥で寂しさと優しさを隠している。 それを知った時から、視線でその姿を追っていたのかもしれない。 最近、香穂子は屋外の場合は理事長室近くの中庭でヴァイオリンを練習することが多い。 そこを好んで練習に使うのは、緑が綺麗で清々しい風を感じることが出来るからだが、吉羅の気配を感じることが出来るのも大きいのかもしれない。 まだ楽譜の弾きこみが足りないのは充分に解っているから、香穂子は今日も気合いを入れてヴァイオリンを奏でていた。 もうすぐ理事長就任式のコンサートだ。 吉羅のためにも失敗したくはなかった。 だからこそ考えている以上にヴァイオリンを弾かなければならないと、香穂子は思っていた。 誰よりも滑らかに、誰よりも豊かに音を奏でたい。 だからこそ、誰よりも演奏をしっかりとしなければならない。 練習量だけでも誰に負けるわけにはいかないからだ。 頑張り過ぎているのは解ってはいるが、それを止めるわけにはいかなかった。 今日は女の子特有の貧血でふらふらであったが、それでも香穂子は止める訳にはいかなかった。 香穂子が楽曲を弾き終わると、ふと背後に余裕のあるゆったりとした大人の気配を感じた。 振り返ると、吉羅が大きなリズムで拍手をしてくれる。 その瞳は相変わらず厳しくて、香穂子は唇を噛み締める。 「まあ、まあだな…。悪くないとでも、言っておこうか…」 声は相変わらず冷たい。その声の端々には、音楽への嫌悪感すら感じられる。 「有り難うございます。とでも言っておきます」 香穂子の挑発的な言葉に、吉羅は僅かに口角を上げる。面白がっているようにしか見えなかった。 「日野君、私は君の演奏には期待している」 「それは有り難うございます」 額面通りに吉羅の言葉を受け入れて良いのかは、香穂子には解らない。 だが瞳の奥を見ていると、吉羅が皮肉で言っているようには見えなかった。 最初はその冷たい態度に腹も立ったし、印象も悪いものしかなかった。 だが、その優しさを言葉や瞳で感じる度に、その冷酷さが決して完全なものではないことが解った。今は、まるで自分で作り出した冷たさにしがみついているように思えてならない。 吉羅の瞳に残る優しさや温もりを見出だす度に、香穂子のこころは吉羅へと開かれていった。 今はもう、どんな冷たい仮面を被っていたとしても、はがす自信がある。 「私はきっとやり遂げてみせますから」 「…ああ。勿論、それが出来ると私は思っている。君以外の人間には難しいだろうがね」 本音なのか、建て前なのか。 吉羅ではないから、香穂子も本当のところは解らない。 だがその瞳を見ていれば、信じたくもなった。 吉羅は香穂子の顔をじっくりと見つめる。 見つめられると、また呼吸がおかしくなる。 切ないときめきは、なんて苦しくて、幸せなものなのだろうかと香穂子は思わずにはいられなかった。 吉羅は不意にスッと目を細める。 「顔色が悪い。就任式のコンサート前に倒れてしまえば、今までの努力が総て水の泡になるからな。せいぜい気をつけ賜え。肉体が病んでいると、良い演奏など出来るはずもないからね」 吉羅は香穂子を窘めるように言うと、理事長室のある校舎へと入っていった。 その孤独な背中を見つめながら、香穂子は深呼吸をする。 「頑張りますから。きっと吉羅さんを乗り越えてみせますから!」 香穂子は決意を秘めたように力強く言うと、吉羅は振り返り、ただ静かに微笑んだ。 「壁は乗り越えるためにあるからこそ、壁なんだ。だから君も、全力でぶつかりたまえ。それが出来るのであればね」 「吉羅さん…」 吉羅の言葉は確かに厳しくてかなりきつい。だが、その言葉にも温かさを感じる。 だからこそ、その言葉の端々に滲ませている想いに、応えなければならないと思った。 「頑張ります」 吉羅が再び背中を向けようとした時だった。 不意に香穂子は躰が浮上るような感覚になり、ふわふわと崩れていくのを感じる。 やはり女の子特有の貧血がある日に、無謀なほどにヴァイオリンを練習したことが、たたってしまったのだろうか。 香穂子が崩れ落ちようとしたところを、しっかりと救ってくれた腕に感謝をしながら、一瞬、闇に落ちた。 意識は直ぐに戻ったが、まだまだふわふわとした感覚は否めなかった。 目を開けると見慣れない場所のソファに寝かされていて、香穂子は躰を起こそうとする。すると逞しい腕に制止された。 「寝ていなさい。君は疲れがかなり溜まっている。ここはゆっくりと休んだほうが良い。それが君にとってもヴァイオリンにとっても良いことのはずだ」 ゆっくりと視界に入った吉羅は冷たく言い放つと、再び香穂子をソファに寝かせる。 「直ぐに保険医が来る。大したことはないとは思うがね、君が具合が悪いままにコンサートを迎えるとなると、こちらも後味は悪いからね」 あっさりと冷たく理由を言われて、やはり凍り付いたこころを溶かすには、骨が折れることを思い知った。切なくて暗い気分を味わいながら、香穂子は唇を噛む。 どうしてもそのこころの奥にある氷を溶かすことは出来ないのだろうか。 香穂子が溜め息を吐くと同時に、保健医がやってきた。 「日野さん、貧血? 最近、疲れているのかしら?」 「…実は…」 実は疲れと女の子特有の貧血が合わさったとは、流石に吉羅の前では大きな声では言えず、香穂子は保健医に耳打ちをする。 直ぐに保健医は頷くと、香穂子をもう一度診察する。 「----なるほど。確かに少し横になれば良くなりそうね。余り無理をしてはダメよ。コンサートが控えているんだから」 「はい」 保健医は頷くと、香穂子から離れた。 「理事長、少し休めば、大丈夫だと思いますよ。このまま少しだここでけ休ませてあげて下さい」 「ああ」 吉羅は無機質に言うと、香穂子の様子をちらりと見た。 「では、私はこれで。日野さんあまり無理はしないようにね」 「はい」 保健医が去ってしまった後、香穂子は直ぐに起き上がる。 「お世話になりました。ここに運んで下さって有り難うございます。もう大丈夫ですから、行きますね」 香穂子が早口で礼を言った後、吉羅は厳しい目付きで睨み付けてきた。 「日野君もうすこし休んでいるんだ」 吉羅は威圧的に言うと、益々厳しい眼差しを向ける。 「だけど練習をしなければなりませんし…」 「練習よりも躰が大切ではないのか?」 確かに吉羅はもっともなことを言うと、溜め息を吐きながら香穂子のそばにきた。 「練習ならここで座ってしなさい」 「え、だ、だけど、お仕事中では…」 香穂子は吉羅の意外な申し出に、目を丸くしながらその顔を見上げる。 「日野君、耳障りでないBGM代わりにでも弾いていてくれ。ただし、失敗はするな」 相変わらず厳しい吉羅の台詞に香穂子は笑みを浮かべた。きっと吉羅なりの譲歩なのだろう。 「失敗しませんなんて言えませんが、私が出来る精一杯の演奏をします」 「…ああ」 吉羅は再び机に向かって仕事にとりかかった。 香穂子は甘くリラックスした気分になると、ゆっくりとヴァイオリンを奏で始める。 甘い旋律は、香穂子のこころを満たしていった。 香穂子は視線を吉羅に向けた。吉羅は優しいまなざしで静かにヴァイオリンを聴きながら、唇に僅かな笑みを浮かべている。 柔らかな冬の終わりの陽射しが吉羅の前で溶けて、とても魅力的に演出をした。 その余りに甘い雰囲気に、香穂子は蕩けてしまいそうになった。 ぼんやりと吉羅を見ていると、逆に見つめ返される。 「あ、あの…」 「…また、調子が余り良くない時には、ここで練習すると良い」 考えもしなかった吉羅の言葉に、香穂子は目を見開いた。 だが悪い申し出ではない。 香穂子は微笑むと、吉羅に呟いた。 「はい、喜んで」 それから理事長室は、香穂子にとって遠い場所ではなくなった。 |