バレンタインの翌日というのは、何だかドキドキする。 チョコレートを受け取って貰えたのは、想いを受け入れて貰えたのは、総て夢ではないだろうかと。 コンビニに行くと、昨日まで派手に主役を気取っていたバレンタインチョコレートが、今日はもう割引きコーナーの住人になって肩身の狭い想いをしている。 香穂子は、このチョコレートが何処か自分のように思えて切なかった。 学院に行くと本当にいつも通りだ。 日曜日も練習のために開放されているせいか、音楽科の生徒を何人か見掛けた。 職員用の駐車場を見れば、大好きな男性のランボルギーニが停まっている。 今日も出勤しているなんて、本当にご苦労様だ。 吉羅はいつ休息を取っているのだろうかと、不思議に思う。 いきなり理事長室に行くのは何だか緊張してしまうから、お昼前に行ってみようと思った。 香穂子は練習室に入ると、ヴァイオリンの練習に励む。 1ミリでも良いから上手くなりたい。 香穂子はそんな想いでヴァイオリンを弾き続けた。 バレンタインの翌日というのは、ある意味心臓に悪い。 「昨日のチョコレートは義理でした」なんてことを言われてしまったら、こんなにも切ないことはない。 こうして不安になるのは、真剣に恋をしている相手だからなのだろう。 吉羅は溜め息を吐くと、理事長室へと向かった。 今日は香穂子がヴァイオリンの練習をしに学院にやってくることは解っている。 理事長室に立ち寄って欲しいと思わずにはいられなかった。 香穂子が立ち寄ってくれたら、何処か食事に行くのも良いかもしれない。 そう思いながら、吉羅は仕事に向かった。 昼には少しばかり早いが、香穂子はどうしても逢いたくなって理事長室へと向かう。 どうか笑顔とまではいかないけれど、いつ最寄りは柔らかな対応をして欲しい。 香穂子は切に願いながら、理事長室のドアをノックした。 「吉羅理事長、日野です」 「入りたまえ」 いつもと同じような何処か冷たい声。 本当に昨日のバレンタインは夢だったのかもしれないと、香穂子は一瞬思った。 おずおずと理事長室に入ると、吉羅は仕事をしていた。 「理事長」 「何かご用かな?」 まるで恋人なんかではないとばかりに、吉羅はあくまでクールだ。 やっぱりあのバレンタインは、嘘なのかもしれない。 香穂子は切ない気分にならずにはいられなかった。 「…ただ、理事長にご挨拶をしたかっただけなんです…。お邪魔だったら」 香穂子が行きかけると、吉羅は「待ちなさい」と制止をした。 「ソファの上にでも座っていなさい」 「はい」 香穂子は言われるがままにソファに腰をかけた。 「日野君、今日の練習スケジュールはいかがかね?」 「今日はもうおしまいです」 「そうか。私ももう少しで終わりだから、ソファに座って待っていてくれたまえ」 「はい」 吉羅はパソコンを見つめながら真剣に見つめている。 香穂子はその横顔をうっとりと見つめることしか出来なかった。 吉羅がこうして仕事をしているのを見るのが、香穂子にはたまらなく楽しかった。 「…理事長…そんなに働いてばかりいてお疲れではありませんか?」 香穂子が心配していうと、吉羅はフッと笑った。 「…そうだね、私は少しばかり疲れているのかもしれないね」 「余り根を詰めるのは余り躰には良くありませんよ」 「解っている。もう少しで仕事は終わるから大丈夫だ」 「はい」 吉羅は手早く仕事を終わらせた。 「日野君、お待たせしたね」 吉羅は片付けると、ソファの前にやってきた。 少しだけだが、吉羅は疲れているように見える。 「お疲れのようですよ、理事長は」 「そうだね…。少しばかり疲れているかもしれないね。少しだけ休ませてくれないかね?」 「はい。良かったらソファで横になられたら」 香穂子がソファから立ち上がろうとして、吉羅に制された。 「良いんだ。君はこのままでいなさい」 「はい」 それでは吉羅が休めないだろうと、香穂子はソファから立ち上がりたくなる。 次の瞬間、びっくりしてしまった。 「……!」 吉羅が香穂子の膝を枕にしてくる。 余りにもの突然のことで、香穂子は息を呑む事しか出来なかった。 「少し休ませてくれ」 「はい…」 吉羅の頭は心地好い重さで、香穂子は思わず微笑んでしまう。 吉羅の髪をゆっくりと撫でると、僅かに口角が上がった。 「…ゆっくりと休んでくださいね」 香穂子の言葉に、吉羅はフッと笑みを浮かべてくれた。 こうして膝枕をするなんて思ってもみなかった。 だがこうして膝枕をすることが、恋人の特権のように思えて、嬉しくてしょうがない。 バレンタインが嘘だったなんて思う不安な気持ちは、いつしか消え去っていた。 香穂子は、吉羅の寝顔を見つめながら、とっておきのものを見せて貰ったと思わずにはいられなかった。 久しぶりに安心してよく眠れたような気がする。 吉羅がゆっくりと目を開けると、香穂子が柔らかな笑みを浮かべてくれていた。 まるで女神のように見える。 吉羅は思わず見惚れてしまう。 「有り難う、よく眠ることが出来たよ」 「それは良かったです」 起き上がって時計を確認すると、小一時間ほど経っていた。 時間以上に疲労回復の効果がある。 恐らくは香穂子に膝枕をしてもらったからだろう。 「有り難う。随分と休息を取らせて貰ったよ」 「それは良かったです」 香穂子の笑顔があるのが嬉しい。 「一息つけたところで、どうかね、一緒に食事にでも行かないかね?」 「有り難うございます!」 香穂子は満面の笑顔で言うと、立ち上がろうとした。 「…あ…!」 足がジンジンと痺れてしまい、香穂子は上手く立ち上がることが出来ない。 「…あ、暁彦さん…、う、上手く立ち上がれません…」 「…しょうがないね」 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子を抱き上げた。 「あっ…!」 「これで、駐車場まで連れて行こうか、私のお嬢さん」 「…は、恥ずかしいですっ!」 香穂子がジタバタしようとすると、視線で威嚇をされてしまう。 「君は荷物を持ってくれたまえ。後、おとなしくするように」 「…はい…」 香穂子は吉羅の目力に負けてしまい、すごすごと引き下がるしかなかった。 吉羅はクールに香穂子を抱き上げたまま駐車場へと運んでいく。 途中で誰か知り合いにあったらどうしようかと思ったが、幸いなことに誰にも逢わなかった。 吉羅の愛車の前で下ろされても、まだドキドキしてしまう。 「ゆっくりとランチを食べてドライブでも行こうか?」 「はい! 嬉しいです」 ふたりで出掛けるのは初めてではないが、こうして“恋人”として出掛けるのは初めてだ。 だからなのか、今日はいつも以上にときめくのを感じた。 助手席に乗るのも以前と変わらない。 だがこの場所がとっておきの場所のように見える。 吉羅はいつも通りに車を出して、レストランへと向かう。 「いつもと同じはずなんですが、何だか特別な気分です。いつものこの座席がスペシャルに思えます」 香穂子が声にときめきを滲ませながら呟くと、吉羅はフッと笑う。 「香穂子、その座席は、君がここに座るようになってからは、君専用だ。だからスペシャルシートだ。君だけのね」 吉羅の甘さが含んだ声に、香穂子はときめかずにはいられない。 いつもと同じ。 だけどスペシャル。 バレンタインの残り物ではなくて、香穂子はいち早く売れたチョコレートのような気分だった。 翌朝、コンビニに立ち寄るとチョコレートは完売していてそれが嬉しくてしょうがなかった。 |