*April Eve*


 恋人が忙しいひとだということは、十二分に解っている。
 連絡もあまりくれないし、かといって、こちらから連絡をするのもかなり迷惑がかかるのではないかと不安になる。
 だから言えないのだ。
 こちらからは。
 香穂子は携帯電話を何度も指先で弾きながら、唇を尖らせた。
 逢いたいのに逢えない切なさを、きっと吉羅は解ってはくれない。
 吉羅を待つ時間ほど胸が痛い時間は他にないし、吉羅と逢う時間ほど幸せな時間はない。
 香穂子が携帯電話を睨み付けて「バカっ!」と囁いた時だった。
 不意に電話が鳴り響き、香穂子は慌てて電話に出た。
「はいっ。香穂子です」
「私だ。久し振りだね」
 吉羅の声が耳に心地好く響いてくるのがとても嬉しい。
 香穂子は嬉しい気持ちをこころの奥に潜めて、わざと素っ気無い声を出す。
「“私”なんてひとは知りません」
 香穂子の拗ねた言葉に、吉羅は苦笑いをする。
「吉羅暁彦だ。香穂子、今から出てくることは出来ないかね?」
 吉羅は香穂子が自分の為に出ることを、ごく当たり前と思っているのが悔しい。
「もう遅いですから出歩くと危険です」
「それも解っている。窓の外を見てくれたまえ」
 吉羅の言葉通りに、香穂子はそっと窓を開けて外を見た。
 家の前には、吉羅のフェラーリが停まっていて人影が見える。
「君に逢って、君をチャージしたいのだが、構わないかね?」
 夜の闇よりも優しくて甘い吉羅の声に、香穂子は結局はいつも負けてしまう。
 この声は罪だ。いつも香穂子を骨抜きにしてしまう。
「判りました…」
「直ぐに来てくれたまえ。何も準備はしなくても構わないから…」
「…暁彦さん…」
 準備なんかしなくても、吉羅の家に行けば生活出来るものはちゃんと置いてある。
 最近は行く機会には恵まれてはいなかった。
「直ぐに逢いたい」
 吉羅に懇願されるように言われると、香穂子はもう折れるしかなかった。
「判りました。姉に一言言ってから下に行きますから」
「有り難う」
 吉羅の夜の闇よりも美しい声に結局は折れてしまう。
 これ以上に香穂子のこころを蕩けさせる声はないのだから。
 香穂子は髪を梳かして、唇にグロスだけを塗り、ソリッドパフュームだけをほんのりと塗り込む。
 後は携帯電話と財布だけを持って、姉のところに向かった。
「お姉ちゃん、暁彦さんが迎えに来たから行くね」
 声を掛けると姉がシートパックをしながら振り返り、OKサインをくれる。
 きっと明日はデートでこまめな手入れをしているのだろう。
「…じゃあ行ってくるね」
 香穂子は姉にもう一度声を掛けると、パタパタと階段を降りていった。
 玄関から出て、鍵を手早く閉める。
 外側から手を伸ばして、門の鍵をかければ完成だ。
「お待たせしました」
 香穂子が車のドアを叩くと、静かに開いた。
 助手席に乗り込み、シートベルトをしようとした途端に、躰を引き寄せられる。
「暁彦さん…、シートベルト…っ!」
 これ以上は喋らせないとばかりに、吉羅に唇を奪われてしまう。
 深いキスで、忘れていた官能を肌が思い出して、香穂子の肌は甘くざわめいた。
 吉羅のキスは激しくて、唇が痛みの余りにぷっくりと腫れ上がってしまった程だ。
「…暁彦さん…」
 唇にピリッとした痛みを感じながら、香穂子は潤んだ瞳で吉羅を見つめる。
 少しばかり疲れてやつれたように見えた。
「…暁彦さん…」
「君にキスをしたくてたまらなかったからね…。痛くなかったかね…?」
 吉羅は親指で香穂子のリップラインを柔らかく撫で付ける。
 そのしぐさに、香穂子はまた骨抜きにされてしまう。
「…大丈夫です…」
 香穂子がぼんやりと返事をすると、吉羅はホッとしたように微笑み、香穂子から離れた。
「このまま六本木に行って構わないかね」
「…はい…」
 吉羅は手早くシートベルトをして、ハンドルを握る。
 香穂子もまた、頭をぼんやりとさせながら、シートベルトを着けた。
「仕事が一段落ついたからね。君に逢いたくなった」
「お仕事ご苦労様です。私も逢いたかったです」
 香穂子は、先ほどまでの苛々とした拗ねた気持ちは何処かにいってしまい、代わりに甘い感情が取って代わったことに気付く。
「明日からは新年度だからね、忙しかったが、暫くは落ち着くだろう。香穂子、君ともまた定期的に逢えるよ」
「良かったです。私もとても嬉しいです」
 香穂子は屈託なく笑うと、吉羅に甘えるように頭を肩に寄せた。
 吉羅はフッと微笑んで、香穂子を甘やかせてくれる。
「うちに行ったらたっぷりと甘やかせて貰うから、そのつもりで」
「はい。たっぷりと甘えて下さい」
 香穂子が笑うと吉羅もまた微笑む。
「バニラの香りがする…」
「…あ…。先ほどソリッドパフュームを着けたからかもしれません…」
「…そうか」
 吉羅は首都高に乗り入れると、六本木に向かってひたすら走る。
 車窓に映るみなとみらいの夜景がとても美しくてうっとりしてしまう。
 しかもそばには吉羅がいるのだから、これ以上にロマンティックなシチュエーションはない。
「…綺麗ですね夜景」
「…そうだね」
 吉羅は同調しながらも、香穂子の手を一瞬握り締める。
「…君のうっとりとする顔のほうが、私は綺麗だと思うけれどね…」
 吉羅の声で甘い台詞を囁かれると、香穂子はとろとろになってしまう。
 まるで照れ隠しをするように吉羅に躰を寄せて甘えるように目を閉じると、吉羅はフッと笑った。

 六本木の吉羅の自宅までのドライブが終わると、ふたりで部屋に入る。
 部屋に入って琥珀色の照明をつけた瞬間、吉羅に抱き上げられた。
「あ、暁彦さんっ…!?」
「君を沢山チャージをしたくてしょうがないんだよ…。今夜は寝不足になる覚悟をしたまえ」
「あ、あのっ、寝不足になったら、私よりも吉羅さんのほうが拙いんじゃ…」
 香穂子が焦るように言っても、吉羅はブラウスのボタンを外すことを止めやしない。
「君をチャージ出来ないほうが、私には余程問題なんだよ…」
 吉羅は切迫するような情熱が滲んだ甘い声で呟くと、香穂子の肌を愛し始める。
 歓喜が湧き上がるほどの熱い愛の行為に、香穂子は肌をしっとりと潤ませた。

 激しく愛し合った後、香穂子は満たされた気分で吉羅を甘えるように見つめる。
「…香穂子、左手を貸してくれないかね?」
「はい」
 香穂子が左手を吉羅に差し出すと、薬指を柔らかく撫でられる。
「…暁彦さん…」
「…一緒にならないか?」
 吉羅が何気なく囁くので、香穂子は一瞬、何を言われたのかと思ってしまう。
 驚いて目を見開いていると、薬指にキスをされて、指環をはめられてしまった。
「…香穂子、結婚しないか?」
 甘い声でストレートに言われて、香穂子は嬉しさの余りに泣きそうになる。
 声が出なくて、ただ頷くことしか出来なかった。
「有り難う…」
「私こそ有り難うございます」
 香穂子が掠れた声で言うと、吉羅はくすりと笑って抱き寄せてくれた。
 ふと香穂子の視界に時計が飛び込んでくる。
 十二時をとうに過ぎている。
 日付が変わって今日はエイプリルフールだ。香穂子は一瞬、不安になる。
「あ、あのっ! 吉羅さんっ! これはエイプリルフールのいたずらだとかじゃ…」
 香穂子が不安げに言うと、吉羅は気付いたのか、フッと微笑む。
「…そう言われると思って、昨日中にプロポーズをしようと思っていたのに間に合わなかったか…」
 吉羅はひとりごちると、香穂子を抱き寄せる。
「…嘘じゃないよ。結婚してくれ、香穂子」
 吉羅に官能的に言い直されると香穂子も微笑む。
「はい、喜んで」
 香穂子が明朗に返事をした瞬間、強く抱き締められた。



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