鈍い青色でありながらも、春の空は清々しい。 昨日までは重い足取りだったひとたちが、はにかみながらも颯爽と歩き出す季節。 春はそんな時期だ。 春を象徴する、桜の花が咲き誇っている。 鈍色の光を通して輝く花は、切ないぐらいに美しい。 一瞬で咲いて、一気に散るからか、桜の花を見つめているだけで、胸がきゅんと締め付けられる。 まるで初恋のようだ。 昼間は透き通った桜色に見えるのに、夜は何故か白に見える。 それはまるで何かの喪に服しているとすら思えてしまう。 昼間の桜色は初々しい少女のようなのに、夜桜は艶やかな娼婦のように見える。 麗しき二面性。 夜と昼の顔が違うからこらこそ。惹かれてしまうのかもしれない。 桜がいよいよ盛りになり、子猫のくしゃみで散ってしまうのではないかと思うぐらいに、儚くも盛りの美しさを見せている。 そんな桜が、香穂子は大好きだ。 いつまでも見つめていたいとすら思う。 大好きなひとと一緒に桜を眺められたら良いのにと思う。 そんなことを考えていると、吉羅から、花見に誘われた。 花見なんて吉羅には似合わないと思うし、想像すら出来ない。 だが、大好きなひとと一緒に桜が見られるなんて、こんなにも嬉しいことはない。 香穂子は嬉しくて、楽しみで、踊り出したくなってしまう。 吉羅と桜を見に行くからと、香穂子は思い切りお洒落をした。 吉羅に桜と同じぐらいに綺麗だと思って貰いたいなんて、おこがましいだろうか。 愛するひとには一番綺麗だと思って貰いたい。それが乙女心というものだ。 約束の場所で吉羅を待っていると、早速と車で現われた。 「お待たせしたね。さあ、乗りたまえ」 吉羅はいつものようにスマートにエスコートしてくれる。こうされると、まるでお姫様のような気分になれるのが、楽しい。 車に乗り込むと、吉羅は静かに車を進ませる。 「暁彦さんと桜を見にいけるのが嬉しいです。どちらにお花見に行くんですか?」 「秘密だ」 吉羅は意地悪にも笑う。 「秘密?」 「ああ。だが楽しみにしていてくれたまえ」 「はい」 吉羅が秘密にするということは、よほど素敵な場所か、変わった場所なのか、どちらかのような気がする。 「暁彦さんに似合わない、オジサンたちがくだを巻いているような花見会場とか……?」 「まさか」 「そうですよね……」 香穂子は苦笑いを浮かべながら、吉羅を見た。 「だから楽しみにしていたまえ」 「はい。楽しみにしていますね」 「ああ」 吉羅が連れていってくれるところは、何処でも素敵だから、楽しみで、わくわくする。 ドライブをしていると、麗しき桜のトンネルが見えてくる。 なんて素晴らしいのだろうかと、思わずにはいられない。 思わず桜並木に見とれずにはいられなかった。 「本当に綺麗です。この桜のトンネルだけで充分に価値がありますよ!」 香穂子は嬉しくて、ついはしゃぐように言う。 すると吉羅も甘い笑みを浮かべながら、ステアリングを握り締める。 車を運転する吉羅も格好良くて、香穂子はついうっとりと見惚れてしまった。 本当に素敵だ。 吉羅と桜トンネルと交互に見つめるものだから、香穂子は忙しくてしょうがない。 だけど本当に嬉しかった。 これだけでも充分に価値があるし、幸せだと香穂子は思った。 「暁彦さん、これがお花見の桜ですか? 本当に綺麗でとっておきの景色ですよ!」 「いいや。これじゃないよ。これはこれで綺麗だが、もっととっておきの桜だ」 吉羅はこんなんじゃないとばかりに、苦笑いを浮かべながら言うと、何処か嬉しそうだった。 「では益々楽しみにしていますね」 「ああ。楽しみにしてくれたまえ」 「はい」 楽しみ過ぎて、香穂子はこのまま踊り出したくすらなった。 吉羅の車は、そのまま山方向に向かってゆく。 香穂子は益々期待が膨らんでゆくのを感じる。 車窓と吉羅を交互に見つめては、つい笑顔になっていた。 やがて車は、美しい洋館へと辿り着いた。 「着きましたね!」 「ああ。降りたまえ」 吉羅は香穂子をエスコートするように、ドアをゆっくりと開けてくれる。 「有り難うございます」 香穂子が車から降りると、吉羅はしっかりと手を繋いでくれた。 古びてはいるが、ロマンティックの塊のような麗しい洋館だ。 「こちらは知り合いが経営している、プチホテルとレストランを兼ねているところだ。温泉が有名だからね、部屋で優雅に温泉も楽しめる。ただし、洋風のバスタブでだけれどね」 「へえ……」 「今日はランチを頼んでいるからね。ゆっくりと食べようか」 「はい」 こんな素敵な場所で、ロマンティックにも桜が楽しめるなんて、思ってもみなかった。 レストランのサンルーム席に通されて、香穂子は驚いてしまう。 目を見張る程の美しい桜の数々に、言葉を失っていた。 「暁彦さん、本当に綺麗ですね……。じっといつまでも見つめていたくなるぐらいです……」 「……そうだね……」 うっとりと桜を見つめていると、美味しそうな料理が運ばれてくる。 春だからか、菜の花を使った前菜だ。 季節感が溢れていて、香穂子はつい微笑んでしまう。 また味も極上で、菜の花の苦みと、一緒に出されたカルパッチョのハーモニーが春らしい。 「桜が美しいだけでなくて、本当にお料理も美味しいですね。何だか嬉しいです」 「気に入ったようで良かった」 美しい景色に、そしてとても美味しい食事に、大好きなひと。 こんなに素晴らしい組み合わせは他にはないと、香穂子は思う。 なんて幸せなのだろうかと、思わずにはいられなかった。 デザートは桜の季節に相応しく、関西風の桜餅だった。 「美味しい!」 「たまには変わった桜餅も良いだろう?」 「はい! 新鮮で美味しいです」 「それは良かった」 吉羅は、香穂子が喜ぶことが嬉しいとばかりに、優しい笑顔をくれた。 夕食の後は、ふたりでしっかりと手を繋いで、レストランの庭を散策する。 「見事なお庭ですね」 「ああ。ほら、あの先には海が見えるよ」 「本当だ!」 桜の向こうには、春の光に輝いている美しい海が見える。 香穂子はついうっとりと見つめてしまう。 こんなにもキラキラと輝いた素敵な海はない。 海は遠くにあっても、充分に感動が貰えるのだ。 「綺麗です……」 余りに綺麗で感動してしまい、香穂子はしばし、言葉を完全に忘れてしまっていた。 「…香穂子…、更に桜が美しい場所がある。案内しよう」 「はい」 吉羅が勧めてくれる場所がどのようなところなのかが、香穂子は気になってしょうがなかった。 吉羅と手を繋いで、導かれるかのように、ホテルの中に入ってゆく。 ロマンティック過ぎる螺旋階段を上がって一番奥の部屋に向かう。 本当に、プチホテルなのだということを、香穂子は思わずにはいられなかった。 吉羅は一番突き当たりの部屋の前に来ると、カードキーで開けてくれた。 「どうぞ。こちらからはとても綺麗に桜がみえるよ」 部屋の中に入ると、そこは古き良き時代の麗しさが残った客室になっていた。 「ここの窓から見る桜は格別だよ」 吉羅に教えられて、香穂子は一緒に窓際に寄り添うようにして立つ。 満開の桜が全面に見えて、まるで桜の王国にも来ているような気持ちだった。 「気に入った?」 「はい、とても」 「今夜はここで泊まろう」 「はい」 ふたりは顔を見合わせて微笑み合うと唇を重ねる。 恋人たちの桜時間は、これから始まる。 |