*春のはじめ*


 春が近いということは、陽射しで解る。

 柔らかな陽射しが心地好くて、つい微笑んでしまう。

 春が素晴らしい季節であることを、ごく最近、発見したのだ。

 これには吉羅自信も驚く。

 本当に今まで何をやっていたのだろうかと、真剣に思ってしまうぐらいにだ。

 今までは、季節なんてどうでも良かった。

 だが、今は違う。

 季節の動きにも敏感になってしまった。

 それは、そばにいてくれる、かけがえのない少女がいるからだ。だからこそ、こうして春を感じることが出来るのだ。

 香穂子とふたりで、手を繋いで、のんびりと横浜の町を歩く。

 こうしているだけで幸せだと、吉羅は思う。

 以前なら、陽射しも季節も関係ない生活を送っていた。

 季節なんて関係ないと思っていた。

 今は、香穂子が季節の移ろいの素晴らしさを教えてくれる。

 まだ、二月ではあるが、空や陽射しが春色に変わってきていた。

 横浜港から見える海の色も、すっかり春めいてきている。

 何もかもがふわふわと温かい。

 季節を感じられないぐらいに、今までは余裕がなかったのかと、吉羅は改めて振り返った。

 香穂子と出会い、同じ時間を重ねているうちに、人は何が大切なのかを、改めて考えることが出来た。

 大切なこと。

 それを教えてくれたのは、吉羅の隣にいる少女だ。

 いや、出逢った時は少女だと思っていたが、今やそうじゃない。

 立派な女性として、吉羅のそばにいてくれる。

 ふたりで、桜木町から元町まで、海を見ながら、手を繋いで歩いて行く。

 星奏学院の地元であることは百も承知している。

 だが、堂々としていたい。

 そして、もう隠す必要もないのだ。

 流石に、香穂子が高校生の頃は、色々と気を遣っていたし、きちんと一線は踏みとどまったつもりだった。正式に付き合ってはいなかった。

 だが、今は違う。

 香穂子はもう高校生ではないのだから。堂々と付き合っても、何の支障はないのだから。

 桜木町から、赤煉瓦倉庫の方向に歩く。左手には、みなとみらいが見えた。

 どこも春色に染まりつつある。

 香穂子と一緒にいると、季節の移ろいが楽しみになっていた。

「まだ寒いのに、春を感じますね」

「そうだね。本格的に春が来たら、江ノ島にでも行こうか」

「はい!江ノ島といえば、しらすですよね。しらすが解禁になったら、春だなあって感じがするんですよ」

「確かに生しらすは美味しいからね」

「生しらす丼が大好きです」

「確かに美味しいね。春の味覚か……。食べ物の話題ばかりだね」

 吉羅は楽しそうに苦笑いをする。

「暁彦さんが、そうしたんですよ。私に美味しい食べ物をいっぱい教えて下さいましたから」

 香穂子が笑顔で屈託なく言うと、吉羅もまた柔らかな笑みを向けてくれた。

 ふたりで歩くと、長く一緒にいたいと思っているからか、ついゆっくりとした歩みになってしまう。

 桜木町から赤煉瓦倉庫までは、結構な距離があると言うのに、二人だと気にならない。

 春になると、華やかな気持ちになる。温かな気分を盛り上げてくれるのは、もちろん、隣にいる恋人でもある。

「春の盛りになったら、桜を見に行きましょうね」

「そうだね。それは楽しみだ」

 美しく咲いて、短い花の時間を全うし、散って行く桜が、吉羅は好きではなかった。

 だが、今は、香穂子のお陰で好きになれた。

 ヴァイオリンを止めた春、桜は墨色に染まった。

 あの春以来、桜は嫌いだったのに、香穂子のお陰でまた、好きになれた。

 これには本当に感謝している。

「春が楽しみです。だけど、この季節も好きなんですよ。陽射しは春ですけど、寒いので、暁彦さんの温かさを堪能することが出来ますし、暑くないから、温かなカフェオレが有り難いですから」

「じゃあ、どこかに入るかね?」

「元町に出てしまいましょう。それまでは歩きたいです」

「じゃあ歩こうか」

 吉羅は、更に強く香穂子の手を握り締める。その強さに、香穂子は頬をほんのりと紅くした。

 海から吹き抜ける風は、確かにかなり冷たい。だが、それもまた心地が好いと思えるのは……。

 吉羅はそこまで思ってフッと笑う。

 どんな気候だろうが、季節だろうが、香穂子がそばにいてくれるだけで、特別なものとなるのだ。

 それは吉羅にとって幸せなことに違いなかった。

 香穂子がそばにいると、毎日がスペシャルになるのは、間違いない。

 赤煉瓦倉庫で、三塔が見えるスポットを見つけて、香穂子ははしゃいで願い事をしようと言う。

 吉羅は思う。

 これ以上、何を願えば良いのだろうか。

 横にいるのはかけがえのない恋人。

 どうしても得たかったひと。

 既に恋して止まないひとがこんな近くにいるというのに。

 これ以上の幸せは、他にはないというのに。

 吉羅は、この幸せが続き、次のステップが迎えられるように祈る。

 本当にそれだけだ。

 香穂子の望みで、神奈川県庁前に行き祈り、大桟橋に向かう。

「まだ、大桟橋は寒いですね」

 香穂子はどこかに嬉しそうに言いながら、大桟橋で風に吹かれていた。

 相当、寒い。

 香穂子もそう思っているらしく、身体を小さくさせて、縮こまっていた。

「寒いのかな?」

「一番寒いです」

 寒いのに、香穂子は嬉しそうに笑っている。その姿がとても可愛かった。

 吉羅は、背後から香穂子をすっぽりと覆うように、しっかりと抱き締めてくれる。

 香穂子は耳まで真っ赤にさせていたが、何処か嬉しそうにはにかんでいた。その表情が、とても可愛かった。

「これだと、温かいだろう?」

「温かいです……」

 香穂子が照れながらも、嬉しそうな表情を浮かべる。それが可愛かった。

「見られても、大丈夫ですか?」

「私は平気だ」

「私もです」

 香穂子はホッとしたように言うと、吉羅に総てを委ねた。

 大桟橋から山下公園を抜け、元町へと出る。

 行きつけにカフェでゴールになる。

 普段は車で走っているが、恋人とのんびりと散歩するのも、また楽しかった。

 カフェでは、香穂子はもちろん、カフェオレを注文する。

「たまにはこうして散歩をするのも好いですね。また、散歩をしましょう」

「そうだね」

 吉羅は香穂子と微笑みあう。

 ただふたりでいること。

 それだけで、こんなにも楽しいだなんて、思ってもみなかった。

 香穂子に魔法をかけられたのかもしれない。

 香穂子にかけられた魔法は、一生、消えることはないと、吉羅は思った。




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