あなたと出会った日のことを忘れたことはありません。 大人で落ち着いた雰囲気で、周りを圧倒する冷たさを兼ね備えたあなたの声を初めて聴いたとき胸の奥が苦しいほどにときめくのを感じました。 そんなあなたとこうして対等にお付き合いが出来るようになって、こんなにも幸せなことはないと、ずっと思っています。 あなた以上に愛することが出来るひとは、もう生涯、出て来ないのではないかと思っています。 こうしてまた、あなたと出会った日々を重ね合わせることが出来て、私はとても幸せだと思っています。 今日はふたりの大切な日。 少なくとも香穂子にとっては。 吉羅と本格的にお付き合いを始めた記念日であるから。 翌日が休みであることもあり、香穂子は、吉羅に頼んで、デートの時間を取って貰った。 どんなにも短い時間でも構わない。 今日、ふたりで同じ時間を刻むことが大切なのだ。 本当に、スターバックスのコーヒーで完敗するだけでも、香穂子は構わないと思っている。 忙しい男性だから。 平日にわがままなんて言える筈もなかった。 今夜も吉羅は重要な会合があり、帰りが遅くなる。 それでも良いから、香穂子はそばにいたかった。 ほんの十分でも良いから。 逢えるだけで嬉しいから。 ロマンティックなレストランデートなんて贅沢なことは言わないから。 ただ、本当に一緒にいたいだけなのだ。 本当にそれだけだ。 それ以上は何も望んではいない。 香穂子は胸がほんのりと痛くなるのを感じながら、吉羅の帰りを待った。 わがままなのは解っている。 大好きな男性が困ってしまうようなわがままを言っているのは、解っているのだ。 だが。 今日は特別な日だから。 ほんの一瞬だけでも良いから同じ空気を吸っていたい。 同じ空間と時間をシェアしたい。 ただ、それだけだった。 最近、渡された合鍵を持って、香穂子は吉羅の家に向かう。 それだけで華やいだ気分になった。 ロマンティックなデートはいつもセッティングしてくれているから、今日は静かにふたりで時間を重ねたい。 ただ、それだけだ。 ほんとうにそれしかない。 香穂子は、吉羅の家に到着をすると、近くで買った少し高めのデリをセッティングして、夕食の準備をする。 ひとりでテレビを見ながら、のんびりと食事をするが、虚しくはない。 吉羅が帰って来てくれるのは解っているから。 いつもよりもほんの少し贅沢をした気分で夕食を食べた後、ヴァイオリンを練習したり、お風呂に入ったり、 吉羅が帰って来て直ぐに眠れるように準備を整えておく。 疲れ果てた状態の吉羅だから、今夜はゆっくりと休んで欲しかった。 気遣いをさせたくはなかった。 本当は、吉羅の迷惑になるから、顔を見たら直ぐに帰るつもりでいた。 しかし、吉羅に家にいるように言われて、香穂子は泊まることになった。 今日の埋め合わせにと、明日は昼間にデートをする予定だ。 吉羅とのデートが楽しみだ。 時計が十一時をさす。 まだ吉羅が帰ってくる気配はない。 もうすぐ日付が変わってしまうかと思うと、泣きそうになってしまう。 吉羅からは連絡はない。 胸が痛くて苦しい。 だが、わがままを言うことが、香穂子には出来なかった。 予定よりも遅くなってしまい、吉羅は少し焦っていた。 今日が何の日かは、吉羅とて忘れてはいない。 人生に於いて最も大切な記念日。 香穂子と正式に男と女として付き合い始めた日なのだ。 香穂子と初めて出会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。 思い出すだけで、心構え幸せな気分になる。 吉羅は、香穂子の雰囲気に一目で惹かれた。 優しい日だまりのような温かさと大きな優しさを感じつつも、意志の強さを感じた力のあるまなざし。 あの瞳に、一目で恋に落ちたのだ。 本当に魅力的なまなざしだった。 吉羅にとってはあの瞳は衝撃的だった。 一目で魂を奪われたと言っても、言い過ぎではない。 ずっと愛し続け、見守ってきた相手と、ようやく結ばれたのが一年前の今日だった。 吉羅にとっても大切な記念日であるのは間違いはない。 香穂子にとってもそうであるように、吉羅にとってもそうなのだ。 今夜はロマンティックなデートをサプライズのように準備をしようと思っていたのだが、生憎、学院にはとても 重要な会合が入ってしまった。 愛しい恋人は、そんな吉羅にわがままなどは一切言わなかった。 吉羅と同じぐらいに学院を誇りに想い、愛しているから、その大切な会合ならばと、笑顔で許してくれたのだ。 本当に良く出来た恋人だ。 もう離したくはない。 離す気もない。 自分のわがままよりもー先ずは吉羅の想いを優先してくれる。 だがそれは重いものではなくて、あくまでも、香穂子にとってはそれが良いからというだけの判断なのだ。 だからいつも笑顔なのだ。 それがまた有り難い。 吉羅は会合を終えて時計を見る。 もう10時半を回っている。 高速を飛ばしてギリギリ今夜の日付に間に合うといったところだ。 吉羅は、直ぐに車に乗り込むと、自宅を目指して車を飛ばす。 心から愛する相手が待っているから、心が幸せのリズムを打ち付ける。 早く逢いたい。 逢って華奢で柔らかな躰を思い切り抱き締めたいと思った。 本当に少しでも早く逢いたいから、電話はあえてしなかった。 その時間すらも、惜しいと思った。 香穂子は溜め息を付きながら時計を見つめる。 香穂子にとっても大切な学院の為に吉羅は働いてくれているのだから、わがままは言えない。 だがせめて一分でも良いから、吉羅と一緒に記念日を過ごしたかった。 理性では理解しているつもりだ。 だが、なかなか、理解出来ないのは、恋する乙女心であるゆえだ。 もうすぐ大切な記念日が終わってしまう。 泣きそうになる。 だが吉羅を責めることは出来ない。 香穂子の為に、精一杯、頑張ってくれているのだから。 香穂子は溜め息を吐いた後、膝を抱えた。 「…暁彦さん…」 もうすぐシンデレラの鐘が鳴る。 まさにその瞬間だった。 「…ただいま…」 吉羅の優しい声が玄関先から聞こえて、香穂子は慌てて走っていった。 「暁彦さん!」 玄関先に出ると、心から済まなさそうな顔をしている吉羅がいる。 まだ記念日のままだ。 香穂子は涙を瞳に滲ませながら、吉羅を見つめた。 こうして時間内に帰ってきてくれた。 香穂子の想いをきちんと汲んでくれたのだ。 それが嬉しかった。 「おかえりなさい、暁彦さん!」 香穂子は吉羅に思い切り抱き着く。 すると吉羅は、しっかりと抱き締めてくれた。 「ただいま、香穂子」 そのまま唇がしっとりと下りてくる。 深い角度でキスをされて、香穂子はうっとりとした気持ちに浸る。 こんなにも幸せなことは先ずない。 本当に素敵な瞬間だ。 何度も何度も深くキスをする。 お互いの愛情を確かめ合うようにキスをした後、ふたりは唇を離す。 ほんの一瞬、見つめ合った後、吉羅は香穂子の左手を手に取る。 「…これからずっとこの記念日を一緒に過ごそう」 吉羅は蜂蜜よりも甘く囁くと、香穂子の左手薬指に、ピンクの愛らしい指環を填めてくれる。 「この指は予約しておくから」 「暁彦さん…」 香穂子は嬉しさの余りに、今にも泣きそうになる。 これからもずっと一緒に記念日を過ごす約束。 これほどまでに嬉しいことはない。 「有り難う、嬉しいです」 「私も嬉しく思うよ…。これからもずっと一緒にいよう」 「はい」 ふたりでもう一度唇を重ねる。 唇を重ねた瞬間、時計の針も美しく重なった。 |