今日はひな祭りで女の子のお祭。 香穂子の家では、もう雛人形を飾ることもなくなってしまった。 姉も社会人になり、香穂子ももう大学生だから、雛人形を飾ることはしなくても良くなってしまった。 雛人形のジンクスなんて忘れてしまっていた。 テレビで雛人形についてやっていて、ふと母親が呟く。 「今年は虫干しがてら、雛人形を出そうかしら。時期的にはもうギリギリなのは解っているんだけれどね」 母親はしみじみ言うと、香穂子をじっと見た。 「あなたのためにも雛人形を出そうかしら」 「私のため? 雛人形なんて飾らなくても大丈夫だよ?」 「良いから。飾りましょう」 母親は笑顔で言うと、食事の後片付けを始める。 「飾って貰ったら、香穂子。折角だしね。うちは小さなお雛様だから、ショーケースみたいなのをリビングに飾れば良いだけだし」 「うん。だったら飾って貰うかな」 香穂子はそれならと頷いた。 今日は吉羅とのデートで、香穂子は待ち合わせ場所であるお馴染みのカフェへと向かう。 雛人形を飾って貰うなんて、本当に何年ぶりだろうかと思う。 ほんのりと嬉しい気分だった。 香穂子が待っていると、程なく吉羅がやってきた。 「お待たせしたね」 「暁彦さん」 大好きなひとが来るだけで、途端に笑顔になる。 「幸せそうな顔をしていたね。何か良いことでもあったのかね?」 「もうすぐお雛様ですから、お母さんが久しぶりに雛人形を飾りましょうって言ってくれて。久しぶりだから本当に嬉しかったです」 「もう三月か…」 「はい」 香穂子はにこにこしながら、吉羅を見つめる。 冬は冬で、大好きなひととくっついていられるから嬉しいが、春はときめきが多い時期だから好きだ。 「雛人形を飾ろうだなんて、お母さんは思うところがあったのかもしれないね」 「そうですね。お姉ちゃんが適齢期だからでしょうか」 香穂子が屈託なく言うと、吉羅は思うことがあるのか、静かに微笑んだ。 「姉が生きていた頃は、姉のために雛人形が飾られていた。うちは洋館だから和室はなかったんだが、それでも母が綺麗に飾っていたね…。もう十五年は飾ってはいないだろうね」 吉羅が不意に寂しそうに呟くのが切ない。 飾られなくなったお雛様のことを考えても、切なかった。 「うちの雛人形の五人囃子は変わっていてね、リリが悪戯をして、ヴァイオリンやチェロ、フルートなどに変えてしまったんだよ」 香穂子は想像するなり、思わずくすりと笑ってしまう。 なんてリリらしいのだろうかと思う。 「うちの五人囃子はアンサンブルを奏でているよ」 「それはそれで楽しいかもしれませんね」 「そうだね」 香穂子は切なさが滲んだ温かな笑みを浮かべると、吉羅を見上げた。 「香穂子、どうかね、アンサンブルを演奏する五人囃子を見に来ないか?」 「え…? 良いんですか!?」 想像していなかった吉羅の申し出に、香穂子は目を丸くする。 確かに見せて貰えたら、こんなにも嬉しいことはないだろう。 「有り難うございます。是非、アンサンブルを奏でる五人囃子が見たいです!」 「じゃ行こうか」 「はい!」 吉羅は香穂子の手を握ると、実家の洋館まで連れていってくれた。 吉羅家に行くのはいつも緊張してしまう。 やはり、大好きな男性の家族にはよく思われたいと思うのは、乙女心だ。 吉羅は、クラシカルでロマンティックな横浜によく似合う洋館に向かう。 山手地区の中でも、吉羅邸の優美さは群を抜いている。 吉羅は実家に入ると、広い駐車スペースに車を停めた。 いつ見ても、吉羅邸は本当に素晴らしい。 「本当にいつ見ても、うっとりとしてしまいます。暁彦さんもこちらで育ったんですよね」 「欧米のようにずっと長い間使えるようにと、曾祖父が建ててから、状態を良くするためのリフォームを繰り返しているからね。見た目はクラシカルだが、中はそれなりに手を入れているからね。いつでもここで住める。ようやく大掛かりなリフォームが終わったばかりだから、また長く住めるよ」 「ご両親も喜んでいらっしゃるでしょう?」 「両親は引越したんだよ。この近くに、曾祖父の代からあるこぶりの洋館があってね、そちらのリフォームを先に済ませて、引越ししたよ。代々、子どもが独立をしたら移ることになっているんだよ」 吉羅はそう言うと、香穂子を連れて家の中に入っていく。 以前こちらにお邪魔をした時よりも、内装は綺麗になっていた。 「さてと五人囃子をおみせしようか。雛人形は倉庫に眠っているから、そちらに行こうか」 「はい」 吉羅と一緒に、倉庫へと向かう。そこの奥に、ヨーロッパ調のこの家には珍しい木で出来た箱が、綺麗に保存されていた。 「これが雛人形だ。綺麗に保存はしているよ。長い間使われている雛人形だから、多少はクラシカルかもしれないがね」 吉羅は綺麗に整頓されて置かれている雛人形の中から、五人囃子を取り出す。 「これだよ。リビングに持っていって見ようか」 「はい」 ふたりで手分けをして人形をリビングへと運んでいった。 リビングは無垢材が使われているのに床暖房が入っている贅沢な仕上げだ。 そこに五人囃子の人形を並べた。 「本当に可愛いー! リリらしい悪戯ですね」 香穂子はうっとりと夢中になって雛人形を見つめる。 流石は音楽の妖精の仕業か、細かいところまで楽器はよく出来ていた。 「本当に素晴らしい人形ですね。こんな雛人形を飾られたら、とっても嬉しいです…」 香穂子が素直な気持ちを言うと、吉羅に背後から抱き締められてしまった。 「…あ…」 「雛人形ごと…、この家を相続した…。香穂子、ここで…これからずっと…、私と生活しないかね…?」 「…暁彦さん…」 名前を呼ぶと、吉羅に更に力強く抱き締められる。 「…一緒にならないか…? 私たちの初めての子どもは女の子が良いかもしれないね…。この雛人形を引き継げるから…」 思ってもみなかったプロポーズに、香穂子は嬉しさの余りに涙が零れ落ちてしまう。 「香穂子…?」 不安なのか、吉羅の声が一瞬揺れる。 「有り難うございます…。私…、暁彦さんと一緒になります…。この家であなたをめいいっぱい幸せにします」 香穂子は自分が言える精一杯の言葉を言うと、吉羅の手を握り締めた。 「有り難う…。私も君を幸せにするよ」 「嬉しいです」 香穂子は泣き笑いの声で言う。 「…君のお母さんが雛人形を飾ると言ったのは…、君が実家で迎える最後のひな祭りであることを、お母さんは知っていたからだよ…」 「え…?」 吉羅は香穂子を正面で抱き締め直すと、フッと微笑む。 「…君のご両親には、予め、近いうちに君にプロポーズをして、ご挨拶に伺うとお伝えしていたんだよ…」 「…暁彦さん」 だから母親は、香穂子を見て、切ない顔をしたのだ。 香穂子と過ごす最後のひな祭りだと知っていたから。 それもまた胸を打ち、香穂子は泣けて来る。 「…香穂子、ふたりでこの洋館を賑やかにしよう。とても楽しみだよ」 「はい。私もとても楽しみです」 吉羅とふたりで未来を思い浮かべて、少しばかりくすぐったい気分になる。 ふたりは唇を重ねると、甘くて幸せな気分を共有しあう。 こんなにも素敵なひな祭りは他にない。 リリがいたずらをした雛人形が、これからもずっと引き継がれることを、香穂子は温かく予感していた。 |