*イジワルなひと*


 寒くても関係ない。

 今はヴァイオリンを練習することが大切だ。

 香穂子は、普通科であるがゆえに、練習室を取れないことがかなりある。

 普通科であると、練習室の予約状況が解りにくいからだ。

 香穂子は、今日も校庭の中庭を使って練習をする。

 寒くても、ヴァイオリンを弾いている間はポカポカするので、とても快適だ。

 ヴァイオリンに集中しながら、香穂子は音の世界にどっぷりと浸っていた。

 

 吉羅は、ひと仕事を終えて、いつものように校庭を見た。

 日野香穂子が、また校庭でヴァイオリンの練習をしている。

 恐らくは練習室が取れなかったからだろう。

 音楽科も試験が近いせいもあり、練習室はいつも混み合っている。

 練習室を予約するのは、音楽科のほうが有利であるから、いつも香穂子は取り損なっているのだろう。

 本当のところ、香穂子のために、練習室を一室空けておきたい。

 だが、音楽科メンバーによる邪魔が入る場合があり、結局は、そうしてやれなかった。

 練習室以外に練習が出来る場所を確保してやりたいが、なかなかそれは難しい。

 数ある音楽室も部活動や、オーケストラ練習で押さえられてしまっている。

 香穂子がかなり不利な立場にいるにも関わらず、コンミスを命じたのは、かなりのハンディがある。

 吉羅は、理事長室があるこの特別棟に、香穂子用の練習室が用意出来やしないかと、密かに考えていた。

 香穂子には、なるべく良い練習環境を用意してやりたかった。

 それぐらいしか、今の自分にはしてやれないからだ。

 吉羅は窓の外で一生懸命練習をしている香穂子を見つめる。

 見ているだけで、外は相当寒いようだ。

 だからこそ、早く練習室を用意してやらなければならないと思った。

 何度も理事長室を使わせるわけにはいかないし、かと言って、風邪を引いて貰っても困るのだ。

 香穂子にとってヴァイオリンに集中出来るベストな状況を作るために、色々と考えてやらなければならないと、吉羅は思っていた。

 吉羅は鈍色になってきた空を見上げる。

「…そう言えば…、今夜はかなり寒く、雪になると言っていたな…」

 吉羅はポツリと呟くと、空をもう一度見上げた。

 

 流石に天気予報は当たるらしい。

 寒風が肌にチクチクと刺さるようになってきた。

 まだまだ我慢が出来るから、香穂子は更に前向きにヴァイオリンに取組む。

 アンサンブルにしても、オーケストラにしても、自分はかなり遅れているのだから。

 人一倍、いや、何倍も練習をしなければならない。

 それは誰よりも解っているつもりだ。

 香穂子は、寒くても、練習だけはやめられないと思った。

 人よりさぼってしまえば、その倍以上は遅れてしまうことを、自分自身で一番解っているからだ。

「バカは風邪を引かないっていうから、大丈夫だよね」

 そんなことを自分に言い聞かせながら、香穂子はヴァイオリンに集中する。

「随分と日も長くなったから、これならギリギリまで練習することが出来るよね」

 香穂子はより長く練習することが出来るのを嬉しく思いながら、更に集中した。

 どれくらい練習していただろうか。

 空が暗くなり、中庭にある街灯にも明かりが点る。

 見上げると、麗しい闇の空から白いものが墜ちて来て、街灯のほのかな明かりに照らされる。

「…雪だ…。やっぱり、降ってきたんだね…」

 柔らかな黄昏色にほんのりと照らされた雪は、ロマンティックで幻想的だ。

 暫く、香穂子は、ロマンティックな雪の男性を見つめていた。

 

 窓側から急に冷気を感じて、吉羅はふと時計を見た。

 すると、そろそろ生徒たちの最終帰宅時間になっていた。

 窓の外を見ると、白いものが闇をやわらかく漂っている。

 まるでダンスをしているかのように麗しい。

 ヨハン・シュトラウスのワルツが似合う優雅さだ。

 流石に日野香穂子もこれでは帰宅をしているだろうと思い、窓の下を見た。

 まだヴァイオリンを練習しているではないか。

 しかも何処か楽しそうにダンスをしている。

 一体、何処まで学習機能がないのかと思いながら、吉羅は直ぐに帰る支度をして、下に降りた。

 このままでは風邪を引く。

 直ぐに送っていかなければならないだろう。

 吉羅は溜め息を吐くと、中庭へと向かった。

 あれほどまでに体調管理は大切だと言ったのに、どうして聞かないのだろうか。

 全く学習機能がないというのは、日野香穂子のための言葉ではないかと、吉羅は思わずにはいられなかった。

 中庭に出ると、吉羅の前には、ヴァイオリンを奏でる雪の妖精がいた。

 余りにも清らかで美しい姿に、ただ見惚れてしまう。

 冬を司る女神様のようだ。

 奏でる曲は、ヨハン・シュトラウス。

 吉羅のイメージと同じだ。

 なんて綺麗なヴァイオリンの音色と、姿なのだろうか。

 香穂子の頭に降り注ぐ雪が、花冠のように見えた。

 いつしか吉羅もワルツを踊りたくなっていた。

 

 香穂子は、雪の華麗なるダンスに合わせて、最後にもう一曲奏でる。

 ヨハン・シュトラウスのワルツだ、

 弾いているだけで、とても楽しい。

 香穂子は吉羅とワルツを踊っている自分を想像しながら、ロマンティックで楽しい気分で、ヴァイオリンを弾いていた。

 本当に白いドレスを着て、吉羅と一緒にワルツを踊っている気分だ。

 自分は白いドレスで、髪はアップして花飾りを着け、吉羅は燕尾服をスマートに着こなしていることだろう。

 後夜祭でワルツを踊りたかった。

 香穂子はそう強く思わずにはいられなかった。

 ワルツを奏で終わり、とても素敵な気分で目を開けた時、目の前には吉羅がかなり厳しい顔で立っていた。

「あれほど体調管理には気をつけろと言ったことを君はまるで解っていないね」

 吉羅は厳しい声で叱りつけたかと思うと、キツく睨んできた。

 恐ろしい。

 一気に現実に引き戻されてしまった気分だ。

 香穂子は、ロマンティックな気持ちから、寒々とした気分になった。

「…後少ししたら帰ろうと思っていました。少しでも長く練習をしたかったんです」

「全く君は…」

 吉羅は呆れ返るように溜め息を吐くと、香穂子を更に厳しいまなざしで見つめてくる。

 香穂子も思わず構えた。

「いつまでもこうしていられても困る。送るから帰宅したまえ」

 半ば命令なのが気に入らない。

「近いですからひとりで帰れます。もう少し練習します」

 わざと逆らうように言うと、吉羅は更に睨み付けてくる。

「…私の車の助手席は、永遠に君の指定席なんだがね」

 さらりと何でもないことのように吉羅は言い、香穂子を見つめる。

 そんなクールな声で甘い言葉を言われたら、心臓がドキドキし過ぎて蕩けてしまうではないか。

 香穂子が耳まで真っ赤にさせて吉羅を見ると、しらっとしたまなざしを向けられた。

「冗談だ」

 意地悪過ぎるにも程がある。ふわふわと雲の上を歩いていた気分から、一気に冷たい泥沼に突き落とされた気分だ。

 乙女の恋心を踏みにじるつもりなのだろう。

 香穂子は腹が立ってしょうがなくて、吉羅に背を向けて歩き出す。

「あちらで練習します」

 香穂子が歩き出すと、それ以上に早いストライドで吉羅が歩いてくる。

「君は抱き上げて強引に車に乗せなければならないほど、強情のようだね」

「やりたければやれば良いですよ」

 売り言葉に買い言葉を言った時だった。

 ふわりと躰が浮上がり、香穂子は躰を固くする。

 まさか本当にやるとは思ってはいなかった。

「…あ、あの理事長…!」

 足をジタバタすると、吉羅はうんざりとしたように溜め息を吐く。

「暴れるな。帰るよ、日野君、鞄は何処かね?」

「あ、あの、教室に」

 吉羅が降ろしてくれないものだから、香穂子はうろたえてしまう。

「じゃあ行こうか」

「あ、あの自分で歩けます!」

「…では教室まで向かおう。着いて行く」

「は、はい」

 吉羅に降ろされた後も、ドキドキし過ぎて、耳まで真っ赤になる。

 なんて意地悪な男なのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 鞄を取った後、香穂子は吉羅に着いて駐車場に向かう。

 結局は、吉羅に負けてしまった、

 車に乗り込むと、ゆっくりと動き出す。

「日野くん、さきほどのことは嘘だ」

 吉羅はさらりと言うと、車をゆっくりと学院から出す。

 冗談が嘘。

 …ということは…。

 香穂子はまたロマンティックな気分になってドキドキする。

 吉羅との勝負。

 結局は負けなのかもしれない。

 だけど、それは恋の魔法にかけられているから。

 恋のキセキの勝利は目前。



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