*風邪をひいたら*


 待望の週末がやってきた。

 香穂子は恋人に逢いたくて、吉羅の家に向かった。

 大学生と理事長の恋。

 秘密にしなければならない恋だけれども、それでも幸せだ。

 香穂子は吉羅が帰って来る前に、家へと到着し、先ずは簡単にシチューの準備をする。

 ヴァイオリンを弾く香穂子に気遣って、吉羅は余り家事をさせてはくれない。

 だが、香穂子は出来る限りの家事をしてあげたいと、常に思っている。

 折角、恋人なのだから、たまには料理をしてあげたかった。

 少しおっちょこちょいのところはあるけれども、母親の手伝いをずっとしてきたから、指先には影響がない程度には料理は出来るし、その上、指先のケアは手のパーツモデル並にきちんとやっている。

 だから心配はない。

 なのに吉羅は、かなり過保護にするのだ。

 香穂子はそれがほんのりと気に食わなかった。

 一時間程で、簡単にシチューとサラダの夕食を作り終えて、香穂子は吉羅を待った。

 その間に、ヴァイオリンを練習する。

 吉羅の家はきちんと防音がされているのが嬉しい。

 練習に集中が出来るからだ。

 練習を一通り終えたところで、吉羅が帰ってきた。

「ただいま」

 いつもの甘さの含んだ低い声ではなく、風邪を引いた時のいがらっぽさが出ている。

「おかえりなさい、暁彦さん。声が…」

「…え…?」

「風邪を引いたのではないですか?」

 香穂子は心配になって、つい吉羅の顔を覗きこんでしまう。

 するとかなり顔色が悪い。

「暁彦さん、顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか? 眠ったほうが…」

 香穂子は、これでは明日は出かけるわけにはいかないだろうと、思わずにはいられなかった。

「これぐらいは大丈夫だよ。心配しなくても良い」

 吉羅の声にはいつものような歯切れはなく、何処か辛そうだ。

 部屋に戻る吉羅は、どこかしらふらついているように見えた。

「暁彦さん、本当に大丈夫なんですか…? 心配です…」

「大丈夫だ。君は気にしなくても良いよ…」

「だけど…」

 本当に吉羅が心配で、香穂子は泣きそうになってしまう。

 吉羅は素早くスーツからラフなスタイルに着替えようとしているが、いつもよりもかなり時間が掛かってしまっていた。

 見兼ねた香穂子は、吉羅が着替えるのを手伝った。

「すまない」

「やっぱり、余り具合は良くなかったんですね…」

 香穂子はカジュアルなスタイルのものではなく、パジャマに素早く差し替える。

「香穂子、大袈裟だよ」

「いいえ。そんなことはありません」

 香穂子はピシャリと言うと、吉羅の額に手のひらを当てた。

 かなり熱い。

 すぐに熱があることが解る。

「暁彦さん…! 熱がありますよ! 直ぐに眠って下さい! シチューならいつでも食べられますから、お粥でも食べて、直ぐに眠って下さい」

 香穂子は直ぐに吉羅をベッドへと連れてゆく。

「私は大丈夫だ…」

「大丈夫じゃあありません。今夜はゆっくりと眠って下さい」

 香穂子はまるで母親のように、かいがいしくすると吉羅を強引にベッドに寝かせた。

「今夜はしっかりと眠って下さいね。茶粥を作りますから、召し上がって下さいね」

「香穂子…」

 香穂子が厳しく言うものだから、吉羅は観念したようだった。

「解ったよ…。だが…」

 吉羅はそこまで言うと、香穂子を真直ぐ見つめた。

「私が寝込んでしまうと、君が眠るところがなくなる…。それは困るな…。君が帰ってしまうから…」

 吉羅はいつもよりも、かなり弱気な雰囲気で呟いている。

 それが香穂子には、ある意味新鮮だった。

「大丈夫ですよ。今日はずっと一緒にいますから…」

「ああ…」

 風邪の発熱のせいで、いつもよりも弱気な吉羅が、可愛くてしょうがなかった。

「ゆっくりと眠っていて下さい。茶粥を作って来ますから」

「ああ」

 吉羅を寝室に残して、香穂子は茶粥を作る。

 吉羅ときちんと付き合うようになってから覚えたとっておきの料理でもある。

 香穂子は茶粥を作りながら、シチューを明日に回せば良いと、ぼんやりと考えていた。

 茶粥を、ベッドのサイドテーブルに置いて、吉羅をゆっくりと起こしてあげた。

「少しでも良いから茶粥を食べて下さいね。薬も用意しましたから」

「ああ」

 吉羅は起き上がると、茶粥をゆっくりと食べる。

 熱が高いせいで、余り食べてはいなかった。

 吉羅はほんの少しだけ茶粥を食べると、薬を飲んで横になった。

 かなり辛い状況だったのだろう。

「大丈夫ですか?」

「ああ…、少し眠ると良くなる…」

 吉羅は弱々しく言うと、そのまま深々と目を閉じた。

「そばにいてくれないか…」

「そばにいますよ…。ずっと…」

 香穂子は声を掛けて、吉羅の大きな手を両手で包み込んだ。

「有り難う…」

 吉羅は安心したかのように、目を閉じた。

 吉羅の手を握りながら、香穂子はジョスランの子守歌を優しく口ずさむ。

 かつて吉羅に歌って貰ったことのある子守歌だ。

 香穂子にとっては、想い出の子守歌だ。

 吉羅がぐっすりと眠るのを見守りながら、香穂子は温かな気持ちになっていた。

 吉羅が眠った後、熱が下がるように氷枕を用意し、熱い額は冷たく濡らしたタオルをあてがう。

 準備が終わると、再び手をしっかりと握ってやった。

 

 どれぐらいそうしていただろうか。

 香穂子はいつの間にか眠くなって、うとうととしていた。

 とても気持ちが良い。

 きっと吉羅としっかりと手を結びあっているからだろう。

 香穂子はぼんやりと思いながら、浅い眠りを貪っていた。

 

 一気に熱が出たお陰で、吉羅は躰が楽になってゆくのを感じた。

 いつもならば、風邪で寝るなんて嫌で仕方がないことなのに、今日に限ってはそんなことはなかった。

 安心してしっかりと休養が取れる。

 嵐のような激しい熱の後は、安らぎがやってきた。

 なんて心地が良いのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 ゆっくりと柔らかく目を開く。

 すると香穂子が手を握り締めながら、吉羅を看ていてくれていた。

 愛しい者がこうして看病をしてくれている。それだけで、吉羅は胸が熱くなるのを感じた。

 香穂子の寝顔を見つめているだけで、風邪なんて撃退出来てしまうような気がした。

 

 香穂子がゆっくりと目を開けると、吉羅が手を繋いだままこちらを優しく見つめていた。

「…暁彦さん…」

「このまま眠ってしまうと君こそ風邪を引いてしまうよ。気をつけたまえ」

 吉羅に逆に怒られてしまい、香穂子はしょんぼりとした。

「そうですね。このままだと風邪を引いてしまいますね」

 香穂子は苦笑いを浮かべると、立ち上がる。

 すると吉羅は香穂子の手を強く握り締めた。

「私と一緒に眠れば良い。温かいからね」

「だ、だけど…」

 香穂子は恥ずかしくてしょうがなくて、真っ赤になりながら吉羅を見る。

「…暁彦さん、風邪は大丈夫なんですか?」

「ああ。君のお陰で良くなったよ。有り難う。明日は大丈夫だよ。君の好きな場所に出かけようか」

「有り難うございます」

 吉羅の顔を見つめると、先ほどに比べると随分と良くなっているようだった。

 香穂子はホッとしてつい笑顔になる。

「香穂子、こちらへ」

 吉羅がベッドに入るように促してくる。

 香穂子ははにかみながら中に入る。

 ふたりはしっかりと抱き合うと、お互いの温もりを感じあう。

 こうしていれば風邪なんて何処かに吹き飛んでしまう。

 そう思わずにはいられなかった。




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