*金環日蝕*


 今日は、金環日蝕の日だ。

 朝早くから天体ショーが始まるということもあり、香穂子もご多分に漏れずに、早起きをする。

 金環日蝕の日は、月曜日だから、香穂子は吉羅の家で見ることにした。

 吉羅に、この世紀の天体観測を奨められたということもある。

 恋人とふたりで見る日蝕は、特別なものになるという予感があった。

 日蝕グラスは、吉羅が準備をしてくれた。

 ふたりで肩を並べて見るのが、本当に楽しみだ。

 日蝕を見た後は、それぞれ仕事と大学に行かなければならないから、慌ただしい朝になるのは確かなのだが。

 全国で、遅刻するひとが続出なのではないかと、香穂子はついいらぬことを考えてしまっていた。

 前日も恋人たち特有の甘い夜を過ごした。

 睡眠不足になるのは確定ではあるが、それはある意味、しょうがないとも思っていた。

 香穂子は、5時には起きて、手早く支度をする。

 朝食は、中華粥を煮て、サイドのメニューは前日に準備をしておいた。

 眠いが、今日一日のことだから、それも構わないと、香穂子は思った。

「暁彦さん、そろそろ日蝕が始まる時間ですよ!庭に出ましょう」

「そうだね」

 吉羅は、最近、横浜の吉羅家の邸宅をリフォームして、そこに引っ越した。

 六本木に住むよりも、吉羅には利便性があるとのことだ。

 横浜にメインの仕事があるのだから、当然と言えば、当然なのかもしれない。

 吉羅は、外資系投資会社のアドバイザーとしての顔を持ってはいるが、それでも都内よりは、横浜が良いとのことだった。

 香穂子にとっては近いから、有りがたくあるが。

「暁彦さん、金環日蝕、本当に楽しみですね!」

「そうだね。君はこういうイベントが好きだからね」

「はい。ロマンティックですし、何よりも、ヴァイオリンを演奏するのに良い刺激になりますから」

「本当に君らしいね。その台詞」

 吉羅は、香穂子にしか見せない、蕩けるような優しい笑みを浮かべる。

 吉羅の甘い笑みを独り占め出来るのが、香穂子には何よりも贅沢なことだと思った。

 ふたりで日蝕を見る。

 一大イベントではあるが、香穂子にとっては、日蝕を見るよりも、吉羅とふたりで同じものを見ることのほうが、強い意味合いを持っていた。

 吉羅が一緒でなければ、香穂子にとってはここまで特別なことには、ならなかった。

「きちんと帽子を被りなさい。ちゃんと水分は用意したかね?ちゃんと日蝕グラスで太陽を見なさい」

 吉羅はまるで父親のようにいう。それが可笑しい。

「暁彦さん、お父さんみたいです」

「お父さんはこのようなことはしないだろう?」

 吉羅はムッとしながらも、背後から香穂子を抱き締めてきた。

「……そ、そうですけど……」

「だったら私のことはそのように言わないように」

「はい」

 香穂子は更に吉羅に抱き締められて、金環日蝕どころではないと感じていた。

「日蝕見ましょう」

「私は日蝕よりも、君の方が良いけれどね」

 吉羅は耳許で甘く囁いてくる。それゆえに、香穂子は背中を震わせた。

 これだと、日蝕観察どころか、大学にも行けなくなってしまう。

「暁彦さん、お仕事にも行かなければならないですから、日蝕を見ましょう」

「私は日蝕と仕事に負けたのかね……」

 吉羅はわざとがっかりするように呟く。だが、少しもそのようなことを、思ってはいないのは、その包容の強さで解った。

「暁彦さん、日蝕が始まりましたよ!」

「そうだね」

 香穂子は、吉羅に甘えるように寄り添いながら、日蝕グラスを通じて、太陽が欠けて行く様子を見る。

「三分以上連続して見ないほうが良いようだよ」

「はい」

 香穂子は頷くと、暫く、見ては、休むようにした。

 吉羅の家は、麗しい緑や花がたくさんあるから、目を休めるのに、ちょうど良かった。

「暁彦さんの家は、日蝕を見るのは最適ですね」

「どうしてかな?」

「庭が綺麗だから、緑で目を休めることが出来ますから」

 香穂子の言葉に、吉羅はくすりと笑う。

「それだけかな。私の家には、君にとって沢山のメリットがあると、私は思うけれどね」

「沢山のメリット?」

「そうだよ。ずっと時間を気にすることなく、朝まで私と一緒にいられる、ヴァイオリンを思いきり練習することが出来る……。その他にも、子供が出来ても、安心して遊ばせることが出来る……。色々と良いことがあるだろう?」

 吉羅は、香穂子を背後からしっかりと抱き締めながら、耳朶を甘咬みをしながら、そっと囁いた。

「あっ、んっ……」

 香穂子は蜂蜜のように甘い声を上げずにはいられなくなる。

 つい上げる甘い声に、吉羅がくすりと笑うのは、言うまでもない。

「……香穂子……」

「……あ、暁彦さんは、さっきから、日蝕観察を邪魔しています?」

「……さあ?私はやりたいことをやっているだけだけれどね。ほら、太陽が欠けているよ」

 吉羅は、香穂子の日蝕グラスを目の前に翳した。

「本当ですね」

 目の前に映る日蝕の様子に、香穂子は納得するように頷く。

「君は本当に日蝕に夢中なのだね……」

 吉羅は苦笑いを浮かべながら、自らも日蝕を楽しむために、グラスを掲げた。

 やがて、日蝕は、最大を迎え、見事なリングを見せてくれる。

「暁彦さん!凄いです!」

 香穂子は夢中になって金環日蝕を見つめる。

 吉羅は香穂子の指を柔らかく触れながら、見つめていた。

 やがて、太陽が元通りになってゆく。

 香穂子は見事な天体ショーに酔いしれながら、ようやく、日蝕グラスを外した。

「良かったです、ヴァイオリンにも良い影響が……」

 香穂子はそこまで話してハッと息を呑む。香穂子の左手薬指には、先程よりも更に立派なダイヤモンドリングがはまっている。

「……これは」

「結婚して欲しいということだよ」

 吉羅は甘く目を細めると、香穂子をしっかりと抱きしめてくる。

「はい……!」

 香穂子は泣いてしまうぐらいに嬉しくて、吉羅の胸に顔を埋める。

「……有り難う、幸せにする」

「有り難うございます。私も暁彦さんを幸せにしますね」

「ああ。私も十分に幸せだよ」

 ふたりは唇を重ねる。

 金環日蝕で見た、美しいリングは、香穂子に更なる幸せのリングをもたらしてくれた。

 美しい天体ショーは、香穂子に更なる幸せを運んでくれた。

 絶対に忘れない。

 香穂子にとっては、新しい人生の第一歩となった。



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