*恋ゆえに*


 香穂子がとても綺麗な横顔で、ぼんやりとベンチに座っているのが見えた。
 これほどまでに美しい横顔は今まで見た事がないと思いながら、吉羅はじっと見つめていた。
 吉羅はゆっくりと香穂子に近付いていく。
「日野君、こんなことをしていると、風邪を引いてしまう。気をつけたまえ」
 吉羅が声を掛けると、香穂子はハッとして顔を上げた。
「…理事長…」
「春は近いが風邪を引いてしまう。それに君はコンミスとしての役目を大いに担っている筈だ。風邪など引いている場合ではないだろう」
「そうですね」
 香穂子は疲れたようにフッと笑うと、吉羅を見上げた。
 こんなに切なそうなのに、凜とした美しさを湛えている。
 これ以上の美しさを持つ女はいないと、吉羅は見惚れる。
「辛いことがあるのかね…?」
「…辛いこと…。ヴァイオリンを引いていると、そんなことは吹き飛んでしまうんですよ。だから辛いなんてことはないんです。ヴァイオリンを弾いていられるだけで嬉しいんです。だけど…、もっともっとヴァイオリンを頑張りたいと思っているんですが、どうすれば良いかと…」
 香穂子は自信なさげに呟くと、吉羅を見た。
「…音楽科に転科する話が出ていると聞いている。君にとって音楽科でヴァイオリンをやることは、良いことだと私は思うが」
 香穂子はニコリと笑いながら頷く。
「私もそれがベストな方法だと思ってはいます。だけど…、みんなに追いつくのに必死になり過ぎて、音楽を楽しむ事を忘れてしまうんじゃないかって不安なんですよ」
「…なるほどね…。本来の楽しさが何処かに行ってしまうか不安なんだね」
「はい」
 香穂子は素直に答えると、茜色に染まり始めた美しい空を見上げた。
「吉羅理事長、私、精一杯頑張るつもりでいます。ヴァイオリンももっともっと上手くなりたいって思っています。だけど…楽しんでやらなければ本当に意味はないと思うんです」
 香穂子の悩ましい声に、吉羅は抱き締めたくなる。
 音楽科に行く選択は、香穂子にとってはそれほど難しいことなのだろう。
「このままでは風邪を引く。どうかね? 私に付き合ってはくれないかね? 生演奏を聴くことが出来るレストランがあるのだが、行かないかね?」
 途端に香穂子の表情がかなり明るいものとなった。
「嬉しいです! 是非、連れていって下さい」
 香穂子は表情を晴れ上がらせると、太陽のような笑顔になった。
「解った。一緒に行こう。着いて来なさい」
「有り難うございます」
 香穂子はベンチから立ち上がると、吉羅に着いてきた。
 少しでも香穂子の悩みが薄くなることを願わずにはいられない。
 吉羅はそう思うと、香穂子を駐車場まで連れていった。

 吉羅は香穂子を車に乗せて、レストランへと向かう。
「学院以外で生演奏を聴くのは久し振りなので、とても嬉しいです」
「君も楽しく勉強が出来ると思うから、これからも頑張るんだ」
「はい」
 吉羅は、香穂子の悩みが消えるきっかけになればと、思わずにはいられなかった。

 吉羅が案内してくれたのは、クラシカルな雰囲気が魅力的なレストラン。
 アンサンブルによる生演奏がひとつの魅力だ。
 料理はどれを選んで良いかが解らない香穂子に代わって、吉羅が適当に頼んでくれた。
 香穂子はひたすらヴァイオリンに聞き入る。
 本当に美しい音色に惚れ惚れとしてしまう。
 これぐらいの演奏はしてみたいと、思わずにはいられなかった。
 優雅なのにとても楽しそうにヴァイオリンを弾いてくれているのが、楽しくてしょうがない。
「…本当にとても綺麗な音色です。聴いていて嬉しくなってしまうぐらいに、素敵です。私もこれぐらいは弾きこなせたらと、思わずにはいられません」
 うっとりとしている香穂子に、吉羅はフッと微笑む。
「…君もこれぐらいは弾きこなせている…。技術はまだ磨かなければならないが、表現力の豊かさは星奏一だと私は思っているよ」
「有り難うございます」
 吉羅に褒められるなんて珍しいことが起こり、香穂子は驚いた。
 くすぐったい嬉しさが満ちてきて、思わず微笑んでしまう。
「有り難うございます。素敵な場所に連れてきて下さって。凄く嬉しいです」
「私も君に夕食を付き合って貰って嬉しく思っているよ」
 吉羅の言葉が嬉しくて、香穂子はつい笑顔になってしまう。
「何だかいっぱい元気が出てきました。有り難うございます」
 いつも吉羅に見守られている。
 それが嬉しい。
 無理難題を言われることもあるが、それは吉羅が香穂子を成長させるために行なっていると理解している。
 吉羅はいつも香穂子をステップアップさせるために、下から支え、高いところから引き上げてくれるのだ。
 いつも感謝している。
 吉羅のサポートがあれば、いつでも高みに昇っていけるだろう。
 香穂子はそう確信していた。
 吉羅が好きだ。
 好きだという言葉では言い表せないほどだ。
 吉羅のことを尊敬し、そして感謝をし、頼りにして、愛している。
 香穂子は熱くて幸せで、そして痛いほどに甘い感情を滲ませていた。
「…吉羅理事長、本当に有り難うございます。音楽祭までの元気を頂きました」
「それは良かった。君は音楽祭成功という手土産を持って、音楽科に転科すれば良い」
 吉羅はいつものように余り感情がない声で言ったが、香穂子にはその気持ちが伝わってきた。
 恋情とは意味が違うかもしれないが、それでも香穂子にとっては大切な想いを受け取った気分だ。
 本当は恋情が欲しい。
 だが、それを今言ったとしてもしょうがないこと。
 香穂子は吉羅を真直ぐ見つめて、笑顔で頷いた。
「有り難うございます。私には沢山、味方になって下さる方々がいますから、悩んでも大丈夫なんですね。その方向で頑張ります!」
 吉羅がそばにいてくれるから、頑張ることが出来る。
 いつも見守ってくれているひとがいるから、前向きになれる。
 香穂子は思い直して、しっかりと頑張ろうかと思う。
「そうだ。頑張りたまえ、日野君」
「はい!」
 悩みが霧散すると、香穂子は更に輝かしい笑みを浮かべることが出来た。

 香穂子の明るく前向きな笑顔を見ているだけで、吉羅はこころから癒されるのを感じた。
 逆にこちらが沢山の元気を貰っているような気がする。
 香穂子の笑顔で癒されて、沢山のやる気といったポジティブな感情をチャージをして、吉羅は学院のために香穂子のために前向きになっていく。
 香穂子の笑顔はなんと力があるものなのだろうかと、思わずにはいられなかった。
 こちらこそ香穂子に有り難うと言いたい。
 香穂子がずっとそばにいてくれさえしたら、恐らくはスランプがあったとしても小さなもので済むだろう。
 吉羅は香穂子をずっとそばに置きたいと思った。
 それは香穂子が元気をくれるというだけではなく、甘い感情を満たしてくれることもある。
 見守り、そしてこれからは異性としても愛し合うことが出来ればと願う。
 食事をしながら、これほどまでに癒される相手は他にはいないと、吉羅は思っていた。

 食事を終えて、吉羅は香穂子を家まで送る。
 本当はドライブをしてみたいところだが、またのお楽しみにする。
 家に到着すると、香穂子はほんのりと名残惜しそうな顔をした。
「有り難うございました!」
「こちらこそ付き合って貰って感謝する」
 吉羅は本当に心からの感謝の意味で伝えた。
 香穂子が笑顔で返してくれる。
 その笑顔は、本当にとっておきのものだった。

 逢うだけでお互いに癒される。
 それが究極の相手であることに気付くのは後少し。



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