*名月後*


 せっかくの仲秋の名月だったというのに、今夜は月を見ることが出来なかった。

 折角、吉羅と一緒に見られる時間が取れたというのに、香穂子には残念でならなかった。

 少し恨めしい。

 台風が来てしまったのだから、しょうがない。

 こればっかりは、流石の吉羅もどうすることが出来ないのだから。

 年に一度の仲秋の名月。

 その日には、麗らかで美しい月を見つめたかった。

 吉羅と一緒に見られるからこそ、意味あるものであるのだ。

 綺麗な瞬間は、やはり愛するひとと見たかった。

 だが、明日は十六夜だ。粋な月には違いない。

 今夜は諦めて、香穂子は眠ることにした。

 すぐそばには大好きなひとがいる。

 大好きなひとと一緒に眠られる。

 これは何よりも代えがたいお楽しみだ。

 幸せの象徴と言っても良かった。

 特に台風のような嵐の夜には、こうして大好きな人に守られるように眠るのは、暴れだしてしまうぐらいに幸せなことだった。

 香穂子はくすくすと笑いたくなるような衝動を抑えて、にっこりと笑いながら、吉羅にくっついて緩やかな眠りに落ちた。

 

 夜中にふと目が覚めて、香穂子は外の様子が気になった。

 台風はもう通りすぎているだろうか。

 そんなことを考えながら、香穂子は心地好いベッドから抜け出した。

 窓の外を覗くと、すっかり台風は通りすぎてしまったようだった。

 夜空がいつもよりも澄んでいるように思えた。

 夜空を眺めているだけで、とても癒される。

 香穂子は、何もなくクリアな空を、ただじっと眺める。

 夜空を眺めていると、やはりヴァイオリンを弾きたくなってしまう。

 流石に吉羅の眠りを妨げることは出来ないから、弾きはしないが。

 星の瞬く音と、ヴァイオリン演奏の音は同じような気がする。

 香穂子は夜空と自らの気持ちを重ねて、段々ピュアになってゆくような気がした。

 

 何だか寒くて目が覚めた。

 いつもならば、寒いからといって目が覚めるわけではないのに。

 吉羅は目を開けて、傍らに愛しいものがいないことに気付いた。

 そばにいなくなる。

 それだけで重苦しく、切ない気持ちになる。

 ようやく見つけた人生の宝なのだ。失いたくはない。

 一番大切なものなのだ。

 傍らに手を当てると、ほんのりと温かい。

 ベッドから出て、それほど時間は経っていないということだろう。

 吉羅は心からホッとした。

 吉羅はベッドから抜け出すと、そのままリビングに向かった。

 リビングの窓辺で香穂子を見つけて、吉羅はハッと息を飲む。

 なんて美しいのだろうか。

 まるで月光の妖精のように思える。

 吉羅はまるで魅入れるような気持ちになりながら、ゆっくりと香穂子に近付いて行く。

 このまま掴まえなければ、何処かに飛んでいってしまうような、そんな危うさを感じずにはいられない。

 か細くて、抱き締めたら折れてしまいそうだ。

 このまま掴まえて、自分の世界に閉じ込めたままで絶対に離したくはない。

 月の光と星の光に彩られた愛する者は、なんと美しいのだろうか。

 吉羅は益々香穂子に夢中になる。

 離さない。

 何があっても決して。

 吉羅は強く思った。

 

 香穂子は月のあかりを真っ直ぐ見つめながら、吉羅とふたりで見たいと思った。

 素晴らしい月だ。

 これ以上にないほどの。

 美しい。

 台風は余り好きではないが、こうして素晴らしい月の光に触れられるのは、とても幸せだった。

 真夜中にこんなにも素晴らしい月の光を見られるのは、紛れもなく台風のお陰なのだから。

 香穂子はそれを強く感じていた。

 ふと安心する気配を感じる。

 それが誰かは直ぐに分かる。

 背後からいきなり情熱的に抱き締められて、香穂子は思わず息を呑んだ。

「……ベッドを抜け出して、君は何をしていたのかね?」

 吉羅の硬くて甘い艶やかな声が耳元で聞こえて、香穂子は身体を固くする。

 だがそれは、甘い震えと同じものだ。

「……暁彦さん……」

 香穂子は一番大切なひとの名前を呼びながら、ゆっくりと身体を預けた。

 とても優しく、情熱的な気持ちになる。

「……月に導かれて」

「……月に……。ね」

 吉羅はフッと笑うと、香穂子の首筋に唇を押し当ててきた。

「君は狼女かな?」

「暁彦さんは?」

「私は吸血鬼かもしれないね」

 吉羅はクスリと笑うと、香穂子の首筋を吸い上げてきた。

 わざと音をたてて首筋を吸い上げられて、香穂子は肌を震わせる。

 このままだと自力で立ってはいられないのでらないかと思った。

 吉羅もそれを察したように、香穂子を抱き寄せる。

「このままだと、ひとりで立っていられないのかな?」

「暁彦さんのイジワル……」

「私はイジワルなんかじゃないよ……」

 吉羅はあくまで楽しんでいるようにしか見えない。

 それが香穂子には恨めしかった。

「……台風が要らないものを持っていってくれたみたいで、折角、綺麗な月と星と夜空が見られたのに……。暁彦さんと一緒に見たかったのに……」

 香穂子が拗ねるように気持ちを訴えかけると、吉羅は更に抱き寄せてくれた。

「……私も美しいものは見たいと思うよ。君と一緒に……」

 吉羅は柔らかく笑うと、夜空に視線を向けた。

「綺麗でしょ?」

「そうだね……」

 吉羅は落ち着いた声で無感動に言った。

「綺麗だとは思わないですか?」

「……いいや、綺麗だとは思っているよ」

 吉羅は苦笑いを浮かべたあと、香穂子を更に強く抱き締めてきた。

「けれども、私は君が一番綺麗だと思っているけれどね……」

 吉羅に甘さと低さが絡まった艶やかなトーンで囁かれて、香穂子は肌を震わせる。

「綺麗な君を堪能したい……」

 吉羅は甘く囁くと、ゆきを軽々と堂々と抱き上げた。

「さあ、ベッドでのんびりと堪能させて貰おうかな?」

 クスリと笑われたあと、吉羅はベッドへと向かう。

「君をしっかりと愛したいからね……」

 吉羅は、香穂子をベッドに横たえた後、そのまま身体を覆うように抱き締めてくる。

 香穂子は幸せに彩られた気持ちになりながら、吉羅をうっとりと見上げる。

 なんて幸せ。

 なんて美しい。

 吉羅以外に美しいひとなんて、他にはいないと思う。

 月よりも、星よりも、いつだって吉羅以上に美しいものなんてないのだから。

 そのまま、台風よりも激しく、月の光や星の光よりも美しい、至福の時間が始まった。



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