今日は虫歯予防デー。 それであるが故に、歯科検診がある。 暁慈もまたその対象で、香穂子と一緒に歯科医院へと向かう予定になっている。 「歯医者さん…やだ…」 暁慈は朝からかなりご機嫌ななめで、朝ご飯もいつものようには食べなかった。 「あきちゃんが虫歯で“痛い、痛い”にならないために行くんだよ。だから一緒に頑張って行こうね」 「あさひは?」 「あさひはまだ大丈夫なんだよ」 「あさひも一緒に診て貰って!」 朝からわがままを言う暁慈に、香穂子は困り果てていた。 いつもはかなり素直で、扱い易い子どもではあるが、歯科医院だけはいつも嫌がる。 大人でも嫌なのだから、当然と言えば、当然なのだが。 あのタービンの音が嫌らしい。 「暁慈、きちんと検診を受けなくて歯が痛くて困るのはお前自身だ。そうならないためにもちゃんと検診は受けなさい」 吉羅はストレートに子どもに対してではなく、一人の大人に対して言うような雰囲気だ。 「とーしゃん、怖いもん…」 暁慈はしゅんとしてしまい、すっかり落ち込んでしまっている。 「暁ちゃんの嫌いな機械は使わないから大丈夫だよ。先生が歯を見るだけだから」 「ホント?」 「うん、ホントだよ」 香穂子は息子の目をみて言うと、しっかりと頷いてみせた。 「…だったら…良い…」 しょぼんとした顔が何とも可愛いと思いながら、香穂子はにっこりと笑う。 「ちゃんと良い子にしていたら、暁ちゃんの大好きなぷりんを作ってあげるからね」 「ぷりん、食べたい」 「うん。だったら歯医者さんに行こうね。暁ちゃん」 「解った…」 香穂子は、暁慈の返事にホッと胸を撫で下ろした。 香穂子が頭を撫でた後、暁慈は渋渋ながら食事を続けた。 「暁慈、お前はお兄ちゃんだから、あさひの手本になるように頑張りなさい」 吉羅はピシリと言う。 かなり子煩悩ではあるが、きちんとしなければならないところは、きちんとしている。そのメリハリがついているところが、香穂子にはかなり有り難かった。 「有り難う、暁彦さん」 香穂子がそっと言うと、吉羅は甘い笑みを唇に浮かべて頷いてくれた。 吉羅が仕事に出るのを、親子三人で見送る。 「…とーしゃん、頑張る」 暁慈は小さな声ながらも言う。 「ああ。お前は立派な男の子でお兄ちゃんだからね。しっかりと頑張りなさい。これはお父さんとお前の男同士の約束だからね」 吉羅が頭を撫でると、暁慈はしっかりと頷いた。 「あい。あきちゃん、とーしゃんとの約束を守るために頑張るっ!」 「有り難う。ちゃんと約束を守れるね。お前なら出来るはずだ」 吉羅の言葉に暁慈はしとかりとした笑顔で頷く。 やはり兄としての自覚が生まれてきたのだと、香穂子は思った。 「いってらっしゃい、暁彦さん…。その…」 香穂子はそっと吉羅に近付く。 「…有り難う…」 香穂子が囁くと、吉羅はただ頷いてくれた。 吉羅が出た後、香穂子は忙しく立ち回る。 「じゃあお片付けをして、ちゃんと準備したら、歯医者さんに行こうか」 「あい…」 先ほどまではしっかりと頷いていたのに、暁慈はやはり不安そうに香穂子を見上げる。 「大丈夫だよ、暁ちゃん。怖くないよ歯医者さんは」 「…うん」 暁慈は行かなければならないとはきちんと理解をしているようだったが、それでも切ないのには違いないようだった。 香穂子は朝食の後片付けとキッチン周りの掃除をした後、暁慈の支度をする。 掃除は歯医者から帰ってからだ。 その間、あさひは抱っこひもで抱っこをする。 我ながら、随分と逞しい母親になったと思わずにはいられなかった。 暁慈の手を引いて歯医者へと向かう。 予約している歯医者は、歩いて数分のところだ。 暁慈はいつものように溌剌と歩くことはせずに、たらたらと歩いている。 こんな歩き方をすれば、吉羅は確実に怒るだろう。 ようやく歯医者にたどり着き、香穂子は受付へと向かう。 「予約をしていた吉羅です」 「お待ちしてましたよ。直ぐに順番が来ますから、待合室にお待ち下さい」 「はい」 香穂子が受け付けている間も、暁慈は拗ねるような仕草をしている。 その表情に苦笑いを浮かべる。 「暁ちゃん、待合室に行こうか。直ぐに終わるからね」 「…あい…」 暁慈は本当に不本意とばかりの顔をしている。それがある意味可愛くもあった。 待合室に行くと、可愛い玩具が幾つか並べられており、スタンダードな絵本も置かれている。 その雰囲気に、幾分か気持ちを和らげたようだった。 「ママ! ぐるとぐれだよっ!」 「そうだね。暁ちゃん大好きだものね」 絵本を手に取って、本当に楽しそうに暁慈は読んでいる。 暁慈の気が紛れたようで、香穂子はホッとした。 「吉羅さん、どうぞ」 名前を呼ばれて、暁慈は躰をビクリとさせる。 きちんと自分の名前が“吉羅暁慈”であることを、認識しているのだ。 「暁ちゃん、行こうか」 「…あい…」 しょんぼりとうなだれるように、暁慈は診察室に入る。 小型のレントゲン装置やタービン、バキュームなど歯科の医療器具が沢山着いているデンタルチェアーを見るなり、暁慈は身構える。 「怪獣っ!」 怪獣だからなのか、香穂子とあさひを守るように、咄嗟にふたりの前に立つ。 「ママ、あれ怪獣だよっ! 暁ちゃんが守るっ!」 「有り難う、暁ちゃん」 兄として、男としての自覚があるのだろう。 暁慈は香穂子たちをしっかりと守らなければならないと、目の前に立ちはだかっている。 「暁ちゃんは怪獣よりも強いんだよね? だったら、怪獣の上に乗っても大丈夫だよね?」 香穂子が言い聞かせると、暁慈は吉羅にそっくりな顔に覚悟の眉間の芯を寄せた。 「…解った」 「じゃあ行こうね」 暁慈は大股で堂々と診察台まで歩いていく。 「さあ、暁慈君だったね。診察台の上に乗ろうか」 「あいっ!」 暁慈は腕に力瘤を作るような仕草をした後で、診察台に乗る。 「じゃあ少しだけ倒すね」 「あいっ!」 返事をした瞬間に、診察台が動いたものだから、暁慈は今にも泣きそうな顔で香穂子を見た。 「大丈夫だよ、暁ちゃん」 小さな手を握り締めてやると、ギュッと握り返してきた。 ライトを着けられて、ミラーを片手に歯科医師が近付いてくる。 「大きく口を開けてみようか。虫歯かを見るからね」 暁慈は怖々と口を開けながら、香穂子の手を思い切り握り締めてきた。 目をギュッと瞑っているところをみると、かなり怖がっているのが解った。 「はい。AからF左右、上下とも異常なし」 歯科医師は手早く暁慈の状態を見た後で、異常がないと太鼓判を捺してくれた。 「はい、じゃあ起こしますね」 診察台が上がることがどうも苦手なようで、暁慈はまた香穂子の手を握り締めた。 「はい、お終いだ。お母さん、暁慈君は虫歯はありませんよ。しっかりと研けています」 「有り難うございました」 虫歯なしに香穂子はホッとした。 暁慈は先ほどあんなにも怯えていたのが嘘のように診察台から降りる。 まるで勝ったとばかりに、どんなもんだとばかりにデンタルチェアーに構えを入れた。 家に帰る時は、先ほどの憂いは何処に行ってしまったのかと思うほどにやんちゃになっていた。 「ママ! 怪獣に勝ったよ! とーしゃんにお話しなくちゃ」 「そうだね」 香穂子は暁慈の手を引きながら笑顔で頷く。 楽しくてはらはらさせられる“虫歯予防デー”だった。 |