日本で久方振りにみられる天体ショーということで、香穂子は吉羅と共にその様子を眺める事にした。 本当はこれを口実に一緒にいたいだけなのだが。 吉羅が用意をしてくれた日蝕用のグラスを準備して、香穂子は空調の効いた理事長室でのんびりとしていた。 吉羅はと言えば、静かに仕事をしている。 吉羅は仕事が第一であるからだろう。 吉羅は見向きもせずに、仕事に集中している。 香穂子はそれを見ながら、苦笑いを浮かべていた。 邪魔をしないようにと、そっとしている。 携帯電話でワンセグテレビを見ながら、日蝕の時間を確かめたりしていた。 その間も吉羅は仕事をしている。 その様子を見ていると、本当にこのひとは仕事が好きなのだろうと思った。 香穂子も待ち時間の間に、大学のレポートを書いたりしている。 いよいよ日蝕の時間が近付いて来たので、香穂子は立ち上がって、普通科の屋上に向かうことにした。 ここは一般生徒は立ち入り禁止で、常に鍵が掛けられている。 それゆえに色々と憶測が飛んでいた。 ここで自殺をした生徒がいたから閉鎖しただの、何処の学校にもありがちな噂だ。 本当のところは、職員用の空間として使われていた名残りであることと、こちらの屋上まで開放することはないだろうとのことらしい。 通常の学校でも屋上は開放していないことから、それに従ったまでのことなのだ。 理事長室は普通科棟にあるため、香穂子はそっと脱げ出して、屋上へと上がることにした。 あいにく横浜では部分日蝕ではあるが、それが見られるだけでも香穂子は嬉しかった。 ワンセグテレビを片手に、香穂子は空を見上げる。 「香穂子」 名前を呼ばれて、香穂子は振り返る。 「暁彦さん…!」 吉羅がスーツのジャケットを脱いだ状態で、立っているのが見えた。 「私も日蝕は見逃したくはないからね」 吉羅はさらりと言うと、日蝕グラスを翳して見せた。 「興味がないのかと思いました」 「いいや、そんなことはないよ。君と一緒に日蝕が見たいと思ってね」 「嬉しいです」 吉羅と香穂子は肩を並べて、じっと青空を見上げる。 なんて綺麗なのだろうかと思う。 空が高くて青いだけでも感動ものなのだ。 香穂子はついうっとりと見つめてしまう。 「空が青いって気持ちが良いですね。あ…、横浜の空なんて、青いうちには入らないかもしれないですけれど…。空気が綺麗なところでは、もっともっと綺麗でしょうから」 「…そうだね…」 吉羅は頷くと、ちらりと時計を見た。 「そろそろ、日蝕が始まるようだよ」 「はい」 香穂子はグラスを掲げて、太陽が欠けていく様子を見つめる。 「うわっ! 暁彦さん、欠けてきましたよっ!」 月が欠けてきたタイミングで、吉羅はギュッと手を握り締めてきた。 香穂子もそれに応えるように手を強く結んだ。 太陽が月によって欠けて行く様子を、香穂子は夢中になって見つめる。 なんと神秘的なのだろうか。 こんなにも美しい風景はひとの力では見せることは出来ないだろうと思う。 自然や宇宙の単位で自分を考えると、なんてちっぽけな存在なのだろうかと、香穂子は思った。 吉羅も自分も宇宙からしたら本当に小さな存在だ。 だが、こうして愛し合うことによって、宇宙が起こす視線な奇跡と同じような奇蹟を生む事が出来るのではないかと、ぼんやりと考えた。 「とても綺麗です」 「ああ。本当に綺麗だね」 吉羅は溜め息を吐くように言うと、太陽をじっと見つめた。 段々と外が暗くなってくる。 充分に明るさが得られてはいないのだろう。 科学的に日蝕が解明されてはいない頃、人々はさぞかし不安に不吉に思ったことだろう。 今ならば、どうして日蝕になるかは解ってはいるから、不安にならないのだろう。 七割強欠けたところで、直ぐに元の美しい形に戻り始める。 ほんの数分の天体ショーは幕を下ろした。 なんて綺麗なのだろうか。 香穂子は暫くうっとりとしていた。 こんなにも美しいものが見られたのだから、ヴァイオリンも綺麗に演奏が出来るのではないかと思う。 いつもよりもより神秘的な音色を作れるのではないだろうかと、香穂子は思った。 「…終わってしまったようですね…」 「…そうだね…」 吉羅は日蝕グラスを外すと、不意に香穂子を抱き寄せてきた。 「…あ…暁彦さんっ!?」 「君は決して日蝕のように忽然と私の前から姿を消さないでくれ?」 吉羅の低くて魅力的なよく通る声に、不安が滲んでいる。 いつもならば考えられないことだ。 あの吉羅暁彦が不安になるなんて。 「私は暁彦さんからは絶対に離れません。日蝕のように突然、消えたりはしませんから」 香穂子は柔らかな声で言うと、吉羅をそっと抱き寄せる。 香穂子は柔らかな優しい気持ちになっていた。 「有り難う…」 吉羅が今度は抱き締めてくれる。 「君は名前の通りに、私の太陽だからね…。君には忽然と消えて欲しくはないんだよ…」 「暁彦さん…」 香穂子は吉羅をそっと抱き締める。 消えて不安になんてさせやしない。 愛する男性を不安になんかさせやしない。 香穂子はにっこりと微笑むと、その決意を込めて抱き締めた。 「日蝕も終わったことだし、そろそろ戻らなければならないね」 「そうですね」 香穂子は頷くと、名残惜しい気分で吉羅から離れた。 ふたりで屋上を出る際に、かつて学院の学生だった吉羅と金澤、吉羅の姉が遺した落書きを見つめる。 「そんなものをじっくりと見るんじゃない」 吉羅に諭されるように言われるが、香穂子は微笑む。 吉羅はかなり照れ臭いのだろう。 いまだかつて落書きをしたのは、この三人だけなのだから。 それは吉羅姉弟だからこそ出来たというこてはあるかもしれないが。 「…懐かしがっていてもいられないからね…」 吉羅の瞳にはノスタルジックな切なさが宿っている。 その理由が分かるから、香穂子は胸が痛んだ。 「…行きましょうか。私は消えないです。暁彦さんから絶対に離れませんから」 「…有り難う…」 吉羅はフッと笑うと、香穂子の手をしっかりと握り締めてくれた。 これで大丈夫。 香穂子は吉羅を見つめながら、安心して良いという意味を込めて頷いた。 理事長室に戻り、吉羅は再び仕事に没頭する。 香穂子はと言えば、レポートを完成させることにした。 レポートが出来たら、理事長室から出るつもりだ。 吉羅の仕事の邪魔をするわけにはいかないから。 香穂子がレポートを終えると、ちょうど1時だった。 夏休み中だからカフェテリアは空いてはいないから、手っ取り早くしかも安く食事が出来ないのが切ないところだ。 吉羅にデリバリーでも買ってきて、それをここで一緒に食べて、それから帰るのが一番だろう。 「暁彦さん、そろそろお昼ですよ」 「ん…?」 吉羅は顔を上げると時計を確認する。 「お仕事の邪魔をしてはいけないのでそろそろ出ますね。あ、お昼がまだですから、何か買って来ます。その後に帰りますから」 「有り難う。だが、私はゆっくりと君とは過ごしたい。一緒にランチに行こうか。近くで申し訳ないがね。後、君が何の予定もなければ、この後も付き合ってくれないかね?」 「良いんですか…? 仕事の邪魔にはならないでしょうか?」 「大丈夫だから、気にしないように…」 「嬉しいです」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅が不意に囁いてくる。 「“日蝕”は嫌だからね…」 吉羅は甘い声で囁き、香穂子を抱き寄せてくる。 香穂子は嬉しくてはにかんだ笑みを浮かべると、吉羅に囁いた。 「…私も日蝕したくなかったんですよ…」 ふたりの利害は一致し、笑顔になった。 |